AI小説「抹茶殺人事件」(Claude版)

抹茶殺人事件

松田卓也+Claude

プロローグ

電話が鳴ったのは、十一月の肌寒い夕暮れ時だった。和歌山市郊外の閑静な住宅地に建つ平屋で、江川英輔は夕刊に目を通していた。記事の内容は目に入っても頭に残らない。退職後の生活は、どこか空虚な響きを持っていた。
玄関先には、柿の実が重たげに実っている。近所の主婦が時折、野菜を持ってきてくれるが、独り暮らしの身には多すぎるほどだ。元和歌山県警の警部という経歴は、この界隈では知る人ぞ知る存在だった。
受話器を取る。「江川です」
「江川か?俺だ、早川だ」

懐かしい声に、江川は思わず背筋を伸ばした。早川健一。元海上自衛隊の艦長で、今は和歌山市の加太で船宿を営む旧知の友人である。加太は古くからの漁港町で、近年は観光客も増えているという。
「珍しいな。どうかしたのか」
「ああ、気になることがあってな。和歌山大学の三輪教授を知っているか?」
「ああ、化学の教授だろう。この辺りじゃ有名な方だ」
三輪教授といえば、地元の学会でも一目置かれる存在だった。江川は新聞で教授の研究成果を目にしたことがある。和歌山大学の看板教授の一人だ。
「その方の奥さんのことでね——」
早川の声が一瞬途切れた。続く言葉は、江川の心に棘のように突き刺さった。
「安藤美鈴という女性を覚えているか。五年前、和歌山で大きな話題になった毒殺事件の被告だ」
江川は無意識に受話器を強く握りしめていた。覚えているどころか、その事件は彼の心に深い傷跡を残していた。当時、江川は捜査の末端にいた。被告の女性は証拠不十分で無罪となったが、江川は今でも彼女の有罪を確信していた。それが、彼が望まない形で警察を去る一因にもなっていた。
「三輪教授の奥さんが、その安藤美鈴だというのか」
「そうだ。それだけじゃない。彼女には、もう一つ気になる事件がある。高校生の時、義理の父親が山で転落死している。保険金が絡んでいるらしい」
受話器の向こうで、早川の声が重々しく響いた。江川は窓の外を見た。和歌山市を囲む山々の稜線が、夕闇に溶けていくところだった。紀ノ川から吹き上げる風が、庭の柿の木を揺らしている。
かつての刑事としての直感が、新たな事件の予感を告げていた。警察を辞めてからというもの、江川は未解決事件の調査を個人的に続けていた。それは、過去への未練なのか、それとも正義感からなのか。自分でもよくわからない。
「わかった。調べてみよう」
電話を置いた江川は、書斎の古い木製の机から一冊のノートを取り出した。表紙には「未解決事件」と記されていた。そこに新しいページを開き、「三輪美鈴」と書き記した。
夜の帳が降りる和歌山の街で、新たな謎が動き始めようとしていた。

第1章 義父の死の調査

東光山の奥地は、人跡まれな場所だった。十一月下旬の冷たい風が、落ち葉を舞い上げる。江川は、山道の崖縁に立って下を覗き込んだ。十五年前、美鈴の義父が転落した場所だ。
「随分と人気のない場所だな」 早川が江川の傍らで呟いた。二人は事件現場の検証のため、休日を利用して東光山を訪れていた。 「ここまで来るのに一時間以上かかったか。なぜわざわざこんな奥地まで」
警察の記録によれば、事故当時、美鈴は義父と二人でハイキングをしていた。彼女の証言では、義父が突然バランスを崩して転落したという。捜査では事故と結論付けられたが、江川には引っかかる点が多すぎた。
「ベテランのハイカーが、なぜこんな危険な道を選んだんだ」 江川は周囲を注意深く観察した。道は細く、片側は深い谷になっている。事故から十五年が経過し、地形も多少は変化しているだろうが、基本的な状況は当時と変わらないはずだ。
「人目につかない場所を選んだとすれば、何か理由があったはずだ」 早川の言葉に、江川は無言で頷いた。
翌日、江川は美鈴の母、田中節子を訪ねた。市営住宅の一室。質素ながら整然と片付いた部屋だった。夫を二人も亡くした女性は、一人娘の美鈴を女手一つで育て上げた。
「私から話せることは、あまりないんです」
節子は淹れたての煎茶を江川の前に置きながら言った。
「でも、主人は美鈴をとても可愛がっていましたよ。実の娘のように」
その言葉に、不自然な重みが感じられた。
「よく二人で出掛けていたそうですね」
「ええ、主人は休みの日によく美鈴を連れ出していました。私はその時、仕事が入ることが多くて」 節子の声が僅かに震えた。
「保険金の件は?」
江川が切り出すと、節子の表情が一瞬こわばった。
「ええ、主人は私のために掛けていました。でも、それは」
言葉を濁す節子。当時の保険金は、相当な額だったはずだ。
その後、江川は美鈴の高校時代の同級生を訪ねた。最初は警戒していた彼女たちも、次第に口を開いていった。
「美鈴さんはね、本当に頭が良かったんです。東大にも行けたはず」
「でも地元の大学に進学したんですよね」
「ええ。お母さんのために。寡婦の母親を一人にはできないって」
「美鈴って、急に変わったことがあったの?」
江川の問いに、同級生の一人が思い出すように言った。
「そういえば、事故の少し前から、元気がなくなったような…。でも誰にも相談はしてなかったみたい」
話を聞くうちに、当時の美鈴の姿が浮かび上がってきた。優等生で、容姿端麗。男子生徒たちの憧れの的だった。しかし、その美貌は、時として災いをもたらすこともある。
夕暮れ時、江川は自宅で集めた情報を整理していた。人里離れた場所での二人きり。義父の異常な愛情。高額の保険金。そして、美しく聡明な女子高生。これらの事実は、どこかで不穏な形で繋がっているはずだ。
電話が鳴った。早川からだった。
「江川、気になることがわかった。義父は美鈴の母親が仕事で留守の日を、よく知っていたらしい」
江川は息を呑んだ。不吉な予感が確信に変わりつつあった。しかし、それを証明する術はもはやない。時効までの五年を、彼女は沈黙のうちに生き延びたのだ。
「安藤浩二の件も調べる必要があるな」
江川は独り言のように呟いた。窓の外では、夜の闇が深まっていた。

第2章 安藤浩二の死

和歌山市内にある小さな喫茶店で、江川は一枚の新聞記事のコピーを広げていた。五年前の地方版。「シロアリ駆除業者、自宅で薬物誤飲か」という見出しが、かすかに色褪せている。
「被害者の安藤浩二、三十二歳。自宅で亜砒酸入りの飲料を誤って口にし、搬送先の病院で死亡」
向かいの席で、早川が記事を読み上げる。
「業務用の亜砒酸を誤って保管していたペットボトルに入れていた疑い、と」
「事件の一ヶ月前に、和歌山大学の同窓会があった」
江川は手帳を開いた。
「そこで美鈴は三輪教授と再会している。在学中、彼女は教授の研究室で学んでいた。化学の才能を買われてな」
「三輪教授との関係は?」
「教授の講義に感銘を受けた美鈴は、その研究室に入った。周囲の証言では、教授への思いは相当深かったようだ。研究室の誰もが気づいていたという」
「同窓会で何があった?」
「教授は最近奥さんを亡くしたばかりだった。食事の不自由さを話す教授に、美鈴が心配そうな様子を見せていたらしい。
そして教授が『君のような人がそばにいてくれたら』と何気なく言った」
早川は黙ってコーヒーを飲んだ。
「その言葉の後、美鈴の様子が変わった、と友人が証言している」
「変わったというと?」
「物思いにふけることが多くなり、同時に、何か決意したような表情を見せるようになったという」
江川は当時の捜査資料を広げた。
「安藤は粗暴な男だった。酒癖が悪く、美鈴への暴力も噂されていた。シロアリ駆除の仕事は順調だったが、家庭では横暴な夫だった」
「で、事故は?」
「安藤は自宅の作業場でよく亜砒酸を小分けにしていた。その日も仕事帰りに作業場で一息ついでいて、誤ってペットボトルの中の亜砒酸入り液体を飲んでしまった、というのが公式見解だ」
「完璧な事故に見えるな」
早川の言葉に、江川は静かに頷いた。
「そう、完璧すぎる。安藤は確かに雑な性格だったが、毒物だけは慎重に扱っていた。営業停止になりかねないからな」
その時、喫茶店のドアが開いた。三輪教授夫人、かつての安藤美鈴その人が、優雅な足取りで入ってきた。江川と早川の姿に気づくと、彼女は微かに微笑んで会釈した。
学生時代から憧れ続けた教授の妻となった彼女は、かつての面影はなく、まるで別人のように洗練されていた。
「同窓会から事故まで一ヶ月。その間に彼女は何を考え、何を準備したのか」
江川は窓の外を見つめながら言った。
「偶然の産物としては、出来すぎているな」
「ああ。憧れの教授との再会。奥さんの死。そして夫の仕事で身近にあった亜砒酸」
その夜、江川は書斎で資料を読み返していた。同窓会の日付。安藤の死亡時刻。作業場の見取り図。そして、半年後に行われた三輪教授との結婚式の案内状。
全ては計算されていたはずだ。しかし、それを証明する手立ては、もはやどこにもない。

第3章 美鈴との出会い

保険会社からの資料を机に広げ、江川は眉をひそめた。三輪教授の生命保険契約書のコピー。受取人は妻・美鈴、保険金額は一億円。契約日は一ヶ月前だった。
(また始まる)
江川は、古い資料を取り出した。十五年前の義父の死亡保険金、五年前の安藤の死亡保険金。そして今度は、現在の夫の保険契約。偶然とは思えない一連の流れがそこにあった。
「止めなければ」
元警察官としての直感が、そう告げていた。
幸いなことに、三輪教授夫妻は江川の住む街に移り住んでいた。大学の研究室を訪ね、江川は防犯コンサルタントという立場で、大学の安全管理について相談に乗るという名目で三輪教授に接近した。教授は定年間際だったが、温厚な人柄で、研究室の安全管理には特に気を配っているという話から意気投合した。
秋祭りの日。提灯の揺れる通りを歩いていると、突然、路地の陰から声がかかった。
「お客さん、ちょっと」
振り向くと、赤い提灯の下に老人が座っていた。深いしわの刻まれた顔に、異様に鋭い目が光っている。
「あなたの運勢を見ましょう」
その声には不思議な説得力があった。
江川は足を止めた。老人は江川の手のひらを覗き込み、しばらく黙って見つめた。やがて顔を上げ、深刻な表情で告げた。
「あなたは今、誰かを追っている。その先には大きな危険が待ち受けている」
江川は内心で苦笑した。街の占い師が、まさか。
しかし老人は江川の目を見つめ、さらに言葉を続けた。
「あなたがしていることは生死に関わることなのです。間違った行動をとると死ぬ。気をつけなさい。あなたは自分の判断を信じすぎている」
言葉に、江川は一瞬、背筋が凍る思いがした。しかし、すぐに理性が働いた。自分の推理に確信を持っていた。知力で勝負する以上、間違いなど起こるはずがない。
人混みの中、ふと視界に美鈴の姿が入った。チャンスとばかりに近づき、声をかけた。
「安藤美鈴さんですね」
美鈴は立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。江川の予想に反し、その表情には動揺の色はなかった。
「ええ、でも今は三輪です」
その声には、なぜか寒々とした響きがあった。
「失礼しました。三輪夫人。実は、ご主人とは知り合いでして。大学の安全管理の件でお世話になっております」
「ああ、江川さんですね」
美鈴は優雅に微笑んだ。
「主人から聞いています。防犯の専門家の方」
江川は言葉を失った。先手を打たれた感覚。主導権は完全に美鈴の側にあった。
「せっかくですから、お茶でもいかがですか? うちで」
その誘いには、どこか挑戦的な響きがあった。
「ぜひ」
江川は答えた。罠と知りながら、彼は誘いに乗った。
祭りの提灯が揺れる中、美鈴の後ろ姿を追いながら、江川は老占い師の言葉を思い出していた。
生死に関わること。
間違えば死ぬ。
自分の判断を信じすぎている——。
しかし彼は、自分の推理を信じていた。占い師の警告さえも、自分の仮説を裏付ける証拠のように思えた。

第4章 抹茶の罠

三輪家の応接間で、美鈴は丁寧な手つきで抹茶を点てていた。
「お待たせいたしました」
美鈴は三輪教授と江川の前に、それぞれ茶碗を置いた。
「主人が、最近困った癖をつけましてね」
美鈴は突然、話を切り出した。
「研究室の化合物を家に持ち帰るんです。先日などは猛毒の化合物を、なんと茶碗に入れて保管していたんですよ」
「まあ、美鈴」
三輪教授は苦笑した。
「あれは特殊な実験のためで…」
「危ないでしょう? 江川さんも防犯の専門家としてどう思われます?」
美鈴の声には非難の色が濃かった。
(なるほど)
江川は心の中で冷笑した。
(これが伏線というわけか。夫が毒物を自宅に持ち帰る習慣があったと、私に証言させるつもりなんだな)
その時、三輪教授の携帯電話が鳴った。
「ああ、研究室からですね。失礼します」
教授は席を立ち、廊下に消えた。
電話の声が聞こえてくる。実験データの確認らしく、長い話になりそうだった。
(今だ)
「三輪夫人」
江川は静かに言った。
「教授の茶碗の抹茶を、飲んでみませんか?」
美鈴の表情が一瞬、強張った。次の瞬間、彼女は立ち上がると、素早い動きで教授の茶碗を手に取り、窓際の盆栽に抹茶を注ぎ込んだ。
「あら、冷めてしまいましたから。新しいのを点てましょう」
取り繕うような微笑みを浮かべる美鈴。
(やはり)
江川の確信は深まった。
「三輪夫人。いや、安藤美鈴さん」
江川は静かに、しかし威圧的に言った。
「私は元刑事です。あなたのことを捜査していました」
美鈴の顔から血の気が引いていく。
「義父の死、そして安藤浩二さんの死。どちらも保険金目的の殺人でしたね」
美鈴の手が震え始めた。
「証拠がなかったから、あなたは逃れられた。でも今回は違う。私がいる」
江川は優越感に浸りながら続けた。
「しかし、今回だけは見逃してあげましょう。もう二度と人を殺そうなどと考えないことです」
美鈴は青ざめ、全身を震わせていた。
(完璧だ)
江川は勝ち誇った気分で、目の前の抹茶を一気に飲み干した。
廊下では、まだ三輪教授の電話の声が続いていた。

第5章 先生、先生、それは先生

突然の痛みに、江川は茶碗を取り落とした。
「な、なぜ…」
美鈴は静かに立ち上がり、窓際に歩み寄った。
「推理が間違っていましたね、元刑事さん」
激痛が全身を貫く。江川は自分の致命的な誤りを悟った。標的は三輪教授ではなく、自分だったのだ。
「あなたは…私を…殺人者と…決めつけた」
美鈴の声が遠くなっていく。
「でも、違うのです」
美鈴は窓の外を見つめながら、静かに語り始めた。
十五年前、あの山で。
「いいところを見つけたよ」
継父は不自然な笑みを浮かべていた。人気のない山道で、突然、私に手を伸ばしてきた。制服のブラウスを掴む手。抵抗する私。揉み合いの末、継父は崖から転落した。
「私は殺そうとしたわけではありません。ただ、自分の体を守っただけ」
保険金は母に入った。それは偶然の結果に過ぎない。
安藤の件は違う。確かに私は殺した。でも、お金のためじゃない。
大学の講堂で初めて三輪先生の講義を聴いた日のことを、今でも鮮明に覚えている。化学の奥深さを語る姿。学生一人一人に向ける優しいまなざし。
研究室に入って、先生の近くにいられることが何より幸せだった。でも先生には奥様がいた。私は安藤と結婚した。
そして、あの同窓会。
「君のような人がそばにいてくれたら」
先生の言葉が、私の心を揺さぶった。 安藤は暴力的な夫だった。教養もない。そんな男と暮らすくらいなら…。
「愛のためなら、私は何でもできる」
美鈴は茶碗を手に取り、じっと見つめた。
江川の意識が遠のいていく。最後に聞こえてきたのは、美鈴の口ずさむ歌声だった。
『幼い私が胸焦がし
慕い続けた人の名は
先生、先生、それは先生』
廊下では、まだ三輪教授の電話が続いていた。そこには、何も知らない幸せな夫がいた。美鈴は窓辺に立ち、庭に咲く花々を見つめながら、静かに微笑んでいた。
江川の動きが止まった。
「ごめんなさい。でも、私の幸せは誰にも壊させない」
美鈴の瞳に、一筋の涙が光った。
その時、廊下のドアが開く音がした。
「お待たせしました。実験データの確認が…」
美鈴は優雅に振り返り、微笑んだ。
「あら、江川さん、お気分が悪くなられたみたいです」