抹茶殺人事件
松田卓也+DeepSeekV3+GPT4o
プロローグ
1998年、和歌山市の郊外。秋の風が山々を染め、赤や黄の葉が風に舞いながら静かに地面に降り積もっていく。遠くから聞こえる野鳥の声と、時折吹き抜けるひんやりとした風が、町並みに静かな寂しさをもたらしていた。
元警部の江川英輔は、自宅の縁側に座り、遠くに見える山々をぼんやりと眺めていた。退職してからというもの、彼の心には未解決事件への未練がくすぶり続けていた。警察官としての使命感と正義感は、彼の胸の中に深く根を張り、静かな暮らしの中でも消えることはなかった。
「もう引退したんだから、のんびりしろよ」と友人たちは言うが、江川にはそれができなかった。彼の中には、警察官としての使命感と正義感が深く根を張り続けており、それが静かな日常にさえ影を落としていた。彼の頭の中には、過去に手掛けた事件の数々が浮かんでは消え、特に解決に至らなかった事件が彼を苛んだ。
そんなある日、彼の元にひとつの電話がかかってきた。受話器を取ると、懐かしい声が耳に飛び込んできた。電話の主は、古くからの知り合いの元海上自衛隊の艦長で、今は地元で小さな船宿を営む早川健一だった。
「江川、久しぶりだな。ちょっと面白い話があるんだが、少し時間を取れるか?」
早川の声は、いつものように落ち着いていたが、どこか興味深げな響きを帯びていた。
「何の話だ?」江川は直感的に、早川の話がただの世間話ではないことを感じ取った。
江川は電話を耳に当て、早川の話に耳を傾けた。
「江川、お前の家の近くに、大学教授の三輪教授という人がいるんだが知っているか?」
「いや知らんな」
「実は、その教授の現在の奥さんが、例の悪名高い、安藤美鈴だ。お前は当然知っているだろう。その美鈴が、今は三輪教授夫人として収まって、三輪美鈴と名乗っている」
江川の背筋が一瞬で伸びた。その名前には聞き覚えがあった。安藤美鈴の事件は一時、テレビのワイドショーや週刊誌を賑わせた大事件であった。週刊誌では美鈴を「毒婦」と囃し立てた。安藤美鈴は夫を砒素で毒殺した疑いで、裁判にかけられたのだ。しかし結果的には証拠不十分で無罪になったのだ。
「その美鈴が今は三輪教授の妻として、俺の家の近くに住んでるってわけか。」
「そうだ。だがそれだけじゃない。その美鈴の義理の父が山道で転落して死んだって話は知っているか?」
「いや、しらない」
江川は一気に興味を引きつけられた。安藤美鈴の事件は記憶にこびりついているが、その義父の転落死については初めて聞く話だった。
「美鈴の母親は実は再婚なんだ。美鈴を連れて再婚したんだ。だから母親の再婚相手の夫は美鈴にとっては義父に当たる。その義父が美鈴とハイキング中に、山道で転落死したんだ。当時は事故として処理されたが、どうも俺には腑に落ちない」
「そんなことがあったのか。知らなかった。それで、君はどう思うんだ?」江川は早川に尋ねた。
「俺は専門家じゃないから、それ以上は言えない。しかし君なら何か見つけられるかもしれないと思ってな。君はもと刑事だから。彼女の過去には何か隠された秘密がある気がするんだ。調べてみないか?」
「ありがとう、早川。とても興味深い話だ」江川は早川に感謝の意を伝え、電話を切った。
早川の話を聞き終えた江川は、すぐにメモ帳を取り出し、三輪美鈴という名前を書き留めた。彼女は過去に夫を毒殺した容疑で裁判にかけられたが、証拠不十分で無罪となった悪名高い女性だ。そして、彼女の義父も山道で転落死したという。これは絶対おかしい。何かある。絶対何かある。しかもその美鈴が名前を変えて、偶然、自分の家の近くに住んでいると言う。江川の心に、かつての捜査官としての勘がうずいた。彼はこの事件に何か隠された真実があると直感した。
「美鈴……か」江川はつぶやきながら、窓の外を見やった。和歌山の山々は夕日に照らされ、赤く染まっていた。その山並みが、いまやどこか不吉な予感に満ちていた。江川の中で眠っていた情熱の炎が再び燃え上がろうとしていた。
彼はこの事件を調べることを決意した。退職した今でも、彼の心の中には正義感が燃え続けていた。そして、彼はその炎が自分をどこへ導くのか、まだ知る由もなかった。彼は早速美鈴に関する資料を集め始めた。過去の新聞記事や警察の記録を調べ、彼女の経歴や事件の詳細を確認した。そして、彼は美鈴の義父の転落死事件に焦点を当てることにした。夫の安藤浩二の事件は裁判で無罪になったのだから、今更どうしようもない。
「この事件には何か隠された真実があるはずだ」江川は心の中でつぶやき、調査を進めることを決意した。
彼は和歌山の山々を見つめながら、これから始まる調査に思いを馳せた。退職した今でも、彼の心の中には警察官としての使命感が燃え続けていた。そして、彼はその炎が自分をどこへ導くのか、まだ知る由もなかった。
第1章:山道での転落死
翌日、江川は山間の集落を後にし、かつて美鈴の義父が転落死したという山道を訪れた。その事件は15年前のことであり、現場にはもう何の痕跡も残されていない。それでも江川は現場に立つことに意味があると感じていた。「まずは現場を訪れろ……だ。」
険しい道は木々に囲まれ、足元には枯葉が積もっている。人一人が通るのがやっとの細い道が続いていた。周囲には人家どころか、人の気配すら感じられない。まさに人里離れた場所だった。
「ここか……。」
江川は地図を確認しながら、事件現場とされる場所にたどり着いた。そこは、谷底が遥か下に見える断崖絶壁の上だった。風が吹き抜けるたびに木々がざわめき、不気味なほど静かな場所だった。崖の反対側にはまばらな林が広がっている。
「たしかに危険な場所だが、しかし手慣れたハイカーが、こんなところで足を滑らせるか?」
江川はつぶやきながら、周囲を注意深く見回した。現場には標識や安全柵がほとんどなく、転落の危険性が高い場所であることは確かだ。しかし、義父がここで滑落したという事実が、どうしても江川の中で腑に落ちなかった。
江川はさらに調査を進め、義父の死後にかなりの額の保険金が美鈴の母に支払われたことを知った。その額は、当時の基準ではかなりの大金だった。これは大きなヒントだ。江川の心に、一つの仮説が浮かんだ。
「美鈴は保険金目当てで義父を殺害したのではないか……」
彼はその可能性を真剣に考え始めた。美鈴は当時、高校生だった。しかし高校生だからといってできないことではない。江川は、彼女が保険金目当てに巧妙に義父の死を計画したのではないかと疑いをますます深めた。「そうだ、きっとそうに違いない」
江川は、美鈴の義父の転落死事件を再調査するために、当時の関係者に話を聞くことにした。彼はまず、美鈴の母を訪ねた。母は今でも地元で静かに暮らしていた。江川の訪問を受けて、初めは夫の死について語るのをためらっていた。しかし江川に諭されて、ようやく重い口を開いた。
「実は私は再婚でして。というのも以前の夫は若くして不幸な病死を遂げたのです。美鈴の本当の父のことです。その後、私は再婚しました。その人が山道で事故に遭った人です。つまりその人は美鈴には義父に当たるわけです。私は夫を二人も亡くしてしまったのですよ……」
「それはなんとお気の毒な……」
「あの日は……美鈴と夫が二人だけで山へ行ったんです。でも、夫が転落したのは突然で……本当に信じられないことでした」母は涙を浮かべながら話した。
江川は母の話を聞きながら、彼女が何かを隠しているような気がした。彼はさらに質問を重ねた。
「ご主人は、美鈴さんのことをどう思っていましたか?」
母は少し考えてから、ためらいがちにこう答えた。「夫は美鈴をとても可愛がっていました。でも……ちょっと可愛がりすぎではないかとも思いました」
江川はその言葉に少し違和感を覚えた。母は夫があまりに義理の娘を可愛がるので、娘に嫉妬心を感じていたのではないだろうか。なにか男女の愛憎が絡んでいるのではないか。彼はさらに尋ねた。
「それでは美鈴さんは、ご主人のことをどう思っていましたか?」
母は少し考えてから、こう答えた。「美鈴は……夫のこと、つまり義理の父を、ごく普通の父として扱っているように見えました。というか、むしろ仲良くしているようにも見えました。普通、あの年頃の女の子は父親を避けるようですね。私もそうでしたけど。遺伝学的な問題らしいですね。でも、美鈴はそんなことはなかった。むしろ実の父親ではなかったからでしょうかね。」
江川はその言葉に何か違和感を覚えた。この母親が嫉妬心から夫を殺した??? しかしそれはあり得ない仮説だった。事件現場が離れすぎている。美鈴が保険金狙いで殺した、この仮説が最も説得力があるように思えた。
江川はさらに調査を進めた。彼は、美鈴が義父の死後にどのように過ごしたのかを調べた。美鈴はその後、地元の和歌山大学に進学し、化学を専攻して優秀な成績を収めていた。
江川は、美鈴の高校時代の友人にも話を聞いた。友人たちは、江川がもと刑事だと聞いて身構えた。美鈴の夫殺人疑惑のことを聞かれると思ったからだ。しかしその話ではなく、美鈴の高校時代のことを聞きたいと言われたので、口が軽くなった。友人たちは美鈴が当時から非常に聡明で冷静だったことを証言した。
「美鈴ちゃんは東大、京大に行けるほどの頭の持ち主だったのよ。でも地元の和歌山大学に行ったのは、お母さんを寂しがらせないための美鈴ちゃんの優しさよ。美鈴ちゃんはとても美人で体の発達も良くて、男子生徒のあこがれのマドンナだったわ……」
これを言う時、友人たちはちょっと悔しそうだった。しかし、江川の期待した、美鈴が義父の死に関与していたという証言は、友人たちからは全く得られなかった。
江川は、美鈴が保険金目当てで義父を殺害したという自分の仮説をますます確信するようになった。刑事としての直感だった。彼はこの事件の真相を突き止めるために、さらに調査を続けることを決意した。
第2章:最初の夫・安藤浩二の死
江川英輔は、美鈴の最初の夫である安藤浩二が亜砒酸中毒で亡くなった事件の資料を広げ、じっくりと目を通していた。この事件は当時、大きな話題になり、週刊誌にも盛んに取り上げられた。週刊誌の中には、美鈴を「稀代の毒婦」として扱ったものもあった。江川はその記事を読みながら、美鈴の過去に潜む闇を探ろうとした。
「安藤浩二……シロアリ駆除業者か」江川はつぶやきながら、安藤の経歴を確認した。安藤は美鈴たち親子の住む家の近くでシロアリ駆除業を営んでおり、美鈴の母とは親しかったという。江川は、美鈴が安藤と結婚した経緯を調べようと考えた。そこで再び、美鈴の母を訪ねた。
「なんどもすみません。またお尋ねしたいのですが、美鈴さんは、安藤さんとどのようにして結婚されたのですか?」江川は母に尋ねた。
母は少し考えてから、こう答えた。「安藤さんは私たちの家の近くに住んでおられまして、とても愛想の良い人で、私は懇意にさせていただいていました。」
「なるほど」
「ところが美鈴が大学を出て、結婚適齢期になったときに、もし美鈴が遠くの人と結婚したら、私はどうなるのだろうと不安になりはじめました。そこで近くに住む安藤さんと結婚したらどうだろうかと思い始めたのです。安藤さんはとても良い人ですから。」
「それで美鈴さんは?」
「美鈴は最初、あまり乗り気ではなかったんです。でも、私が強く勧めたので……娘は親想いで、ついに私の願いを聞き入れてくれたんです」
「なるほど。それで結婚生活はどうだったのです?」
そう聞かれて母親は言い淀んだ。
「娘が時々、家に来て愚痴を言うのです。安藤さんが乱暴だとか。私にはあの人の良い安藤さんがと、信じられませんでした。だから美鈴にわがままを言うのはよしなさいとさとしました」
江川はその言葉を心に留め、さらに調査を進めた。江川は、当時の警察の捜査記録を詳しく調べた。記録によれば、安藤はシロアリ駆除用の亜砒酸を誤って飲んでしまい、中毒死したとされていた。しかし,江川はその説明に疑問を抱いた。安藤はシロアリ駆除の専門家であり、亜砒酸の取り扱いには慣れていたはずだ。彼が誤って飲むとは考えにくかった。「どのようにして飲ませたのだ?」
江川はさらに、安藤の死後に多額の保険金が美鈴に支払われたことも確認した。その額は、当時の基準ではかなりの大金だった。江川の心に、やはり同じ仮説が浮かんだ。
「美鈴は今回も保険金目当てで安藤を殺したのではないか……。一度成功したので、二度やるのは十分にあり得る話だ」
彼はその可能性を真剣に考え始めた。美鈴は結婚当時も、まだ若かったが、彼女の知性と冷静さは、年齢を超えたものだったことは友人が証言済みだ。一度、義父で成功したからには二度やるのは十分ありえる話だ」
美鈴は結婚後も、地元の大学に通い続け、三輪教授の元で研究を続けていたそうだ。彼女の心の中には、安藤に対する複雑な感情が渦巻いていたはずだ。というのも美鈴と安藤とでは教養のレベルが違いすぎるのだ。安藤はシロアリ駆除業者、美鈴は科学者の端くれとしての自負があるように見える。つまり月とスッポンと言ってもいいだろう。それでも安藤が優しければいい。しかし母親の話では、そうではないという。安藤は妻に対しては乱暴だった。そうすれば夫婦仲がうまくいくはずはない。
しかし,だからと言って夫殺しという大胆な犯罪を犯すには、それ相応の理由があるはずだ。江川はそれを保険金狙いと考えたのは当然だろう。週刊誌にもそう書いてあったし世間もそう考えている。
江川は、安藤が亡くなった当時の状況を詳しく調べた。彼は、安藤がシロアリ駆除用の亜砒酸をどのように保管していたのかを確認した。記録によれば、安藤は亜砒酸を自宅の倉庫に保管しており、美鈴もその存在を知っていた。しかし、安藤が誤って飲むとは考えにくかった。
問題はどのようにして美鈴が安藤に亜砒酸を飲ませたのか。これはどうしてもわからない。そこで美鈴が安藤の死後に得た保険金の使い道を調べた。美鈴はその保険金を使って、母のために新しい家を購入していた。
江川は、美鈴が義父殺しに次いで安藤を保険金目当てで殺害したと確信した。しかしながら、この事件は裁判で無罪となって決着がついている。だからこの事件を掘り返しても、あまり意味はないことは江川には分かっている。
しかし義父の件は、裁判になっていないのだから、証拠さえ得られれば、美鈴を裁判にかけることができる。彼は、美鈴の正体を突き止めるために、さらに調査を続けることを決意した。
第3章:三輪教授との出会い
江川英輔は、美鈴の現在の状況を調査し、現在の夫である三輪教授が最近、高額の生命保険に加入したことを突き止めた。江川は、美鈴が義父を殺して保険金を得て、さらに前の夫を殺して保険金を得たと確信していた。それが正しいなら、いや正しいに違いないが、現在の夫が多額の保険金をかけたとすれば、第三の殺人を計画するのではないだろうか。いや絶対やるだろう。二度あることは三度あると言うではないか。もしそうなら江川はそれをなんとしても阻止しなければならないと感じた。これは元警察官としての彼の義務だと思っていた。
幸いなことに、三輪教授夫妻は江川の住む街に住んでいる。それを利用して、江川は三輪教授に接近することを画策した。そのために江川は密かに教授の自宅付近に張り込むことにした。大学のある休日に、江川が教授の自宅付近を張っていたときに、教授が出かけるのを見つけて尾行した。その跡をつけると教授が近隣の美術展へ足を運んだので、自分も美術館に入った。教授は大学で教鞭を執る一方、学外では古美術に造詣が深いことで知られていた。
展覧会の会場は静かな空間で、壁一面に飾られた絵画や陶器が控えめな照明の中で輝いていた。江川は無作為に作品を眺めるふりをしながら、三輪教授の姿を探した。三輪教授はある作品の前で熱心に鑑賞していた。
「おや、こちらの作品に興味をお持ちですか?」
江川は三輪教授に声をかけた。振り返ったやや長身の紳士の顔には落ち着きと知性が漂っている。
「もしかして、三輪教授ですか?」江川は続けた。
「はい、そうですが。」と三輪教授。
江川は軽く微笑んで名乗った。「江川英輔と申します。偶然、先生のお近くに住んでいまして、先生のお名前は何度かお聞きしています。」
「それはどうも。」教授は軽く頭を下げた。「こちらの美術展は、私が時々訪れる場所です。美術にご興味が?」
「ええ、少しばかり。しかし、こうした深い世界にはまだ初心者でしてね。」
「そうですか、それならぜひこちらの作品を。」三輪教授は江川を近くの展示品へと案内した。
二人はその後、作品の技法や作者の背景について話を交わした。会話は和やかに進み、江川は次第に教授の人柄に触れていった。
「美術だけでなく、先生は教育や研究にも情熱を注いでおられると聞きました。」
「まあ、そうですね。学生たちを指導するのは、やりがいのある楽しい仕事です。」
江川は会話の中でさりげなく家庭の話題に触れた。「奥様は何をしておられますか?」
三輪教授は少し考えるようにして答えた。「家内には感謝しています。家庭を支える家内のおかげで、私は仕事に集中できる。」
「奥様は確か、美鈴さんというお名前でしたね。ご近隣でとても評判の良い方です。」
「そうです、美鈴です。よくご存知ですね。私が言うのもなんですが、家内はとても頭が良く、それに気がつく人で、私にはもったいないくらいの人です。」
江川は教授の言葉に注意深く耳を傾けた。その中には、美鈴への尊敬と愛情が感じられた。
「立ち入ったことをお聞きするようで失礼ですが、奥様とはどのようにしてお知り合いになられたのですか?」
「いやあ、家内は私の元の学生なのですよ。女子学生に手をつけたなんて言われるのが嫌なので、あまり大っぴらには言ってないのですがね。家内は学生時代からとても頭が良くて、成績も良くて、私は評価していたのです。それがあるきっかけで結婚することになって」教授は照れ笑いしながら告白したが、一種の惚気だった。
会話が進むにつれ、江川は教授からさらに個人的な情報を引き出すことに成功した。教授は美鈴が家庭内でも優れた知性を発揮し、何事も完璧にこなす様子を誇らしげに語った。
その日の別れ際、江川は次回もこのような機会があれば、と教授に提案した。教授は快く応じ、二人の関係は次第に深まっていく兆しを見せ始めた。
「またお会いしましょう、江川さん。」教授が立ち去ると、江川は小さく息をついた。
「これで彼らの生活に一歩踏み込む準備ができたな……。」
第4章:美鈴との出会い
つぎに江川は美鈴の尾行をすることにした。ある日、美鈴の跡を追って、江川と三輪教授夫妻が住む集落の秋祭りに出向いた。秋祭りの会場は賑やかで、提灯の明かりが夜の闇を照らし、人々の笑い声が響き渡っていた。江川はその雑踏の中を慎重に進み、美鈴の後をつけた。彼女は白地に青の柄があしらわれたきものを纏い、穏やかな微笑みを浮かべながらゆっくりと屋台を眺めている。その振る舞いには、どこか浮世離れした美しさがあった。
「見た目は普通の女性だな……。」
江川は距離を保ちながら、美鈴の様子を観察していた。しかし、ただ眺めるだけでは何も進まないと判断し、思い切って彼女に声をかけようとした。
その時、江川は急に屋台の占い師の老人に呼び止められた。
「失礼ですが、あなたには何か異常な雰囲気が漂っていますね。もし良かったら、あなたの運勢を見させていただけませんか。いえ、見料はいただきません。これは私の職業上の興味ですから」
「ええ、いいですよ」江川は戸惑いながらも占い師の言葉に興味を覚えて、そう答えた。美鈴のことはあとでいいや。
老人は江川の顔相と手相をじっくりと見ながら、深くうなずいた。
「あなたがしていることは、生死に関わることです。止めた方がいいでしょう」
江川は一瞬、驚いたが、すぐに冷静さを取り戻した。確かに、彼がしていることは殺人事件の捜査なのだから、生死に関わることだ。占い師の言葉は、逆に自分の仮説に確信を抱かせるものだった。
「ありがとう。よくお分かりですね」江川はそう言い、占い師の元を離れた。
夏祭りの雑踏の中で、江川は再び美鈴を発見した。そこで偶然出会ったふりをして美鈴に近づき呼びかけた。
「安藤美鈴さんですね」
彼は美鈴が動揺するだろうと予想していた。しかし、美鈴は冷静さを保ち、江川の挑発に動じなかった。彼女は江川の意図を見抜いているかのようだった。
「はい、そうです。でも、今は三輪美鈴です」美鈴は微笑みながら答えた。その微笑みは、どこか謎めいた雰囲気を漂わせていた。
江川は少し動揺したが、すぐに取り繕った。「三輪教授の奥様ですね。私は江川英輔と申します。先生とは最近知り合ったばかりですが、とても良い方ですね」
「なるほど、あなただったのですね」美鈴はうなずいた。「夫はよくあなたのことを話しています。」
「そうですか、先生に覚えていただいて光栄です」と江川は応じた。「先生とはまたじっくりとお話ししたいです」
「それなら、もしよろしければ、ぜひ家に遊びに来てください」と美鈴は江川を誘った。
江川は内心、これはいい機会だと考えた。彼は美鈴の誘いを承諾し、「ぜひお伺いさせていただきます」と答えた。
その夜、江川は自宅に戻り、今日の出来事を振り返った。美鈴の冷静さと謎めいた雰囲気は、彼の心に深く刻まれた。彼は、美鈴が第三の殺人を計画しているのかを再考した。そして、そうに違いないと確信した。それはなんとしても阻止せねばならない。それは警察官としての自分の責務である。
第5章:抹茶の罠
三輪家の茶室は、静けさと緊張が入り混じった空気に包まれていた。江川英輔は、美鈴が点てる抹茶の香りを感じながら、彼女の一挙手一投足を観察していた。美鈴は優雅に茶筅を動かし、抹茶を点てる。その姿はまるで芸術のようだったが、江川の心には警戒心が渦巻いていた。
「江川さん、どうぞお召し上がりください」美鈴は微笑みながら、江川の前に抹茶を置いた。
「ありがとうございます」江川は礼を言い、茶碗を手に取った。その瞬間、美鈴が夫の三輪教授に向かって厳しい口調で話し始めた。
「先生、また実験用の猛毒の化合物を自宅に持ち帰ったでしょう?それも茶碗に入れて保管しているなんて、本当に無神経ですよ。もし誰かが間違って飲んでしまったら、大変なことになるんですよ」
三輪教授は苦笑いを浮かべながら、「すまん、すまん。大学と家庭をごっちゃにして。不用心だが、ちゃんとラベルを貼ってあるから大丈夫だよ。君が飲むことはないだろう?」と弁解した。
江川はその会話を聞きながら、心中で推理を始めた。「美鈴はこの席で抹茶に毒を混入し、夫を毒殺しようとしている。そして、その事故を証明するために、わざと教授の不用意さを非難しているのだ。つまり、私を証人として利用しようとしているに違いない」と推理した。
その時、別の部屋の電話が鳴り響いた。教授は「ちょっと席を外すよ」と言い、電話に出るために部屋を出ていった。電話の内容が詳しく聞こえてくるわけではなかったが、どうやら話が長引きそうだと江川は感じた。
江川は心の中で「これはチャンスだ」と思い、美鈴に向かって言った。
「美鈴さん、すみませんが先生の茶碗の抹茶を飲んでみてくださいませんか?」
美鈴は一瞬、動揺した表情を見せた。彼女は慌てて茶碗を取り上げ、部屋の隅にある盆栽に抹茶を捨てた。
「あ、すみません。ちょっと熱すぎたので……」美鈴は取り繕うように笑ったが、その手はわずかに震えていた。顔も驚愕して青ざめているように見えた。
江川はその様子を見て、自分の推理が正しかったことを確信した。彼は冷静な声で言った。
「美鈴さん、実は私は元刑事です。本当のことを言えば、あなたのことをずっと捜査していました。ご存知ないでしょうが……。私の捜査の結果、あなたの義理のお父さんが亡くなられたのも、あなたの元の夫の安藤さんが亡くなられたのも、あなたが殺したのでしょう? 私には分かっているのです。保険金狙いだったのでしょう? 図星でしょう? しかし、証拠がなかったので、今までは逃れられました。でも、今回は違いますよ。今回はうまくいきません。なぜなら私がいるからです。私を騙せると思ったら大間違いです。刑事を相手に騙せるはずはありません」
その言葉を聞いて美鈴の顔は真っ青になり、ブルブルと震え始めた。彼女は言葉を失い、ただ江川を見つめるしかなかった。
江川は続けた。「しかし、今回は見逃してあげます。だから、今後は決して人を殺すようなことは考えないでください。もうこれ以上、罪を重ねるのはやめなさい」ときつい声で言った。
美鈴は震える声で「わ、分かりました……」と答えたが、その表情には、考え抜いた策略がなぜ分かったのかという驚愕と、刑事の追求という恐怖が刻まれているようだった。
江川には自分の仮説が正しかったことが証明された瞬間だった。江川は自分の前に置かれた茶碗の抹茶をぐっと飲み干した。勝利の美酒の味とはこれだ。
「これで全てが終わった。これからはまた平和な退屈な生活が続く」江川は心の中でつぶやき、安堵のため息をついた。
第6章:「先生、先生、それは先生」
江川が抹茶を飲んでしばらくしてから、喉から腹部にかけて激しい痛みが走るのを感じた。まるで炎が内側から燃え上がるような感覚。彼は茶碗を落とし、机に手をついて体を支えた。額から冷や汗が流れ、視界が揺らぎ始める。
「これは……まさか……」
江川は苦悶の表情を浮かべながら、美鈴を見た。
「お前……ターゲットは……教授じゃなくて……俺だったのか……?」
美鈴は静かに立ち上がり、江川の前に跪いた。彼女の目には冷たい光が宿り、微笑みが浮かんでいた。
「そうですよ、江川さん。でも、もう遅いのです。全ては私の計画通りです」
江川はその言葉を聞きながら、意識が遠のいていくのを感じた。彼は最後の力を振り絞って「美鈴……お前は……」と呟いたが、それ以上言葉を続けることはできなかった。
美鈴は江川の前に座り、彼の苦しむ姿を冷静に見つめた。その目には、勝ち誇った笑いが浮かんでいた。彼女の心の中で、回想のモノローグが始まる。
————————————
「義父を殺したのは、保険金のためじゃない。あの人は……私が女子高校生で、美貌で、良い体をしていることに邪心を抱いていた。だから、あの日、人気のない山にハイキングに誘ったの。そして、そこで私を……レイプしようとした。私は必死に抵抗した。でも、力では勝てない。あの時、私はただ必死だった。結果的に、あの人を谷底に落としてしまった。私はあの人を殺そうとしたわけじゃない。あれは……事故だった。母に保険金が入ったのは、ただの偶然。結果論に過ぎない」
彼女の目には、義父の顔が浮かぶ。あの日、山道で彼が笑いながら近づいてきた時のことを思い出す。その笑顔の裏に隠された欲望。これがこの男の真の姿か。彼女は震える手を握りしめた。
「でも、元の夫の安藤……あの人は違う。あの人の死は、私が計画した。でも、動機は保険金じゃない。あの人の外面は良かったけど、私には粗暴で、暴力も振るった。教養もなく、話も合わない。先生とは月とスッポン……あの人との生活は、地獄だった」
美鈴の頭の中に、三輪教授の優しい笑顔が浮かぶ。大学時代、彼の講義に夢中になった日々。彼の学識の深さと、人を包み込むような優しさに触れ、彼女は深く恋に落ちた。
「先生……あの時、私はあなたを愛していました。でも、あなたには奥様がいた。だから、私は諦めた。安藤と結婚したのも、母のため。でも、あの同窓会で……先生が憔悴しているのを見た時、全てが変わった」
彼女の心に、あの日の情景が鮮明に蘇る。三輪教授が、寂しそうに語る声。
「最近、妻を亡くして……子供もいないから、孤独なんだ。学問一筋に生きてきたから、料理もできないし、家事もできない。朝食はパンだけ、昼食と夕食は生協の食事……味気ないよ。君みたいな人がそばにいてくれればいいんだけど……」
その言葉が、彼女の心に火をつけた。
「あの時、私は決めた。安藤を消して、先生のそばで暮らすことを。私は愛のためなら、なんだってする。そうして手に入れた今の幸せを……この元刑事はズタズタにしようとしている。許せない。死になさい」
美鈴は江川の苦しむ姿を見つめながら、静かに呟いた。
「あなたは私を誤解していました。私の動機は……愛です」
美鈴の頭の中には昔はやった森昌子の「先生」という歌が鳴り響いていた。「幼い私が胸焦がし、慕い続けた人の名は、先生、先生、それは先生……」
江川の視界は次第に暗くなり、最後に彼が見たのは、美鈴の冷たい微笑みだった。