鶯荘殺人事件
松田卓也+Claude
第1章「運命の出会い」
春の朝もやが晴れ始めた岡山県総社市から車で20分の静かな田舎家。亜里沙は夫の源三郎を玄関先まで見送った。
「気をつけて」
「ああ」
黒いベンツが山あいの道を総社市街へと消えていく。その後ろ姿を見つめながら、亜里沙は半年前の出会いを思い出していた。亜里沙は特に美人とは言えない。むしろ平凡な顔立ちだと自分では思っている。それがこんな立派なお屋敷の奥様に収まっているのが不思議な気がした。
***
「井上さん、この資料を」
神戸の商社で働いていた頃、山田大輔からよくこんな風に声をかけられた。隣の部署との連絡係のような関係が、もう十年以上も続いていた。
「はい。ありがとうございます」
いつもの事務的なやり取り。でも、時々山田の視線に熱いものを感じることはあった。けれど、彼は一歩も踏み出そうとはしなかった。
井上亜里沙はもう33歳、神戸の女子大学を出た後、この会社に勤めている。父と母がいたが、兄弟姉妹はいない一人っ子である。数年前に父が急逝した。そのことを予感していたのかどうか、父は自分自身に多額の保険金をかけていた。母はそれを受け継いだので生活に不安はなかった。でも不幸は続くもので、その母も父の死後に急に体調を崩して、要介護状態になった。それで亜里沙は母の介護をしなければならなかった。そんなこともあり、山田の好意は感じながらもなかなか一歩踏み出せなかった。
山田のほうも大学院博士課程の弟がいて、その学資を負担しているので裕福ではない。そのこともあり、山田は亜里沙を愛しているのだが、結婚してくれと言い出せなかった。そういうわけで二人の中途半端な関係がズルズルと続いてきたのだ。
その母も一年前に亡くなった。母の介護が終わり、天涯孤独になった亜里沙は、父の残した保険金を母から相続した。介護が終わったのだから山田と結婚しようとすればできた。山田が言い出してくれればいいのだ。
しかし山田は亜里沙が母の多額の遺産を受け継いだことを知っている。それで亜里沙に結婚を言い出せば、財産狙いだと思われるかもしれない。そんなふうに思うと、亜里沙へ親しい言葉をかけるのも憚られた。それから、亜里沙と山田の距離が少し開いた気がした。
「井上さん、最近元気ないみたいだけど」
同僚の中村さんが声をかけてきた。
「うちの実家で小さなパーティーをするの。来ない?」
それが運命の分かれ道だった。
その日、初めて村上源三郎と出会った。
洗練された物腰で、微笑みながら話す様子に、周りの女性たちは目を奪われていた。
「イタリアでね」
「ロンドンに住んでいた時は」
話題が次々と展開していく。
「僕はこう見えても結構怖がりでね。心臓が弱いのですよ。本当ですよ。だから幽霊と蛇は大嫌い、あんなのを見ると死にそうになる」
と女性陣を笑わせるのもうまい。
「あの、井上さんでしたよね」
気がつくと、源三郎が隣に座っていた。
「お一人暮らしだと聞きました」
亜里沙は自分の境遇を語った。父の死、母の介護、そして今の孤独。
「そうですか」
源三郎の声に温かみがあった。
「私も一人きりなんです」
亜里沙は母から多額の遺産を受け継いだことをポロリと漏らしてしまった。それから、矢継ぎ早の誘いが始まった。高級レストランでのディナー、コンサート、美術館。
それで分かったことは、源三郎は時間にうるさいことだった。ある時、亜里沙はデートに5分遅れたが、それをやんわりと嗜められた。また源三郎は非常に几帳面な性質のようで、いろんな出来事をいつもメモしていた。
「これ以上、村上さんとは」
山田が珍しく強い口調で言った。
「君は彼のことを何も知らないじゃないか」
「知ってますよ」
亜里沙は反論した。
「ヨーロッパで投資の仕事をして」
「それは彼の話を鵜呑みにしているだけだ」
山田の声が震えていた。
「君には幸せになって欲しい。だから」
その時、亜里沙には山田の気持ちがわかっていた。でも、もう遅かった。
「岡山に素敵な家を見つけたんです」
源三郎は優しく微笑んだ。
「総社市の近くです。鴬荘という名前の」
「田舎暮らし?」
「ええ。都会での生活に疲れていませんか?」
源三郎の声が耳元で囁くように響く。
「緑に囲まれて、鳥のさえずりを聞きながら」
確かに、亜里沙は都会での生活に限界を感じていた。毎日の喧騒、雑踏、人々の冷たい視線。
「結婚して欲しい」
プロポーズの言葉が、運命の扉を開いた。
「井上さん!」
山田は必死だった。
「もう少し時間をかけて」
でも、亜里沙の心は決まっていた。山田はプロポーズしてくれなかったじゃないか。
私は天涯孤独の身、どこに行っても同じだ。
いや、違う。源三郎となら、新しい人生が始められる。
春の風が桜の花びらを舞い上げる中、亜里沙は頷いた。
その時は、まだ誰も知らなかった。
この決断が、どんな結末をもたらすのかを。
第2章「鴬荘」
吉備路の古い街道から少し入った山道を登ると、鴬荘は静かに佇んでいた。4月初旬、桜の花びらが風に舞う中での引っ越しだった。
「荷物は少なくて助かりますね」
源三郎が笑う。二人とも独り身だったから、引っ越しは思いのほか簡単に済んだ。
亜里沙は玄関に立ち、深く息を吸い込んだ。空気が違う。神戸の匂いとは全く異なる、森の香りがした。周囲には豊かな森林が広がり、近くには清流も流れている。遠くには吉備の山々が連なっていた。
「気に入った?」
「ええ」
「ここらの田舎は、昔は賑わっていたそうだが、今は過疎化が進んで、家を手放す人が多いと聴く。だから家の値段が安くなっている。この家は昔の庄屋の屋敷だったそうで、家も庭も非常に大きい。それが三千万円とは安いね。都会なら数億はするだろうね」
家の費用は源三郎の提案で折半して払うことにした。亜里沙は母の遺産から1500万円支払ったが、それでこの豪邸である。期待以上だった。庭は広く、苔むした石灯籠や刈り込まれた松や梅、桜の古木が、この家の歴史を物語っているようだった。
和洋折衷の建物は、青木という前所有者が現代的に改装したという。古い柱や欄間は残しながら、キッチンやバスルームは最新式に変えてあった。
ただ、家の裏に広がる林だけは少し不気味だった。鬱蒼として、昼なお暗い。春の日差しも、その奥まではなかなか届かない。
「総社の街までは車で20分ほどだ」
源三郎が地図を広げながら説明する。
「買い物には不便じゃないよ」
確かにそうだった。でも、この静けさは少し寂しくもある。近所付き合いもない。夫が総社の事務所に行ってしまうと、一日中独りきりになる。
「あ、佐藤さんがきた」
窓越しに、庭に入ってくる老人の姿が見えた。
「庭師の佐藤富蔵さんだ」
源三郎が説明する。
「青木さんとの約束で、週に一度庭の手入れに来てくれるのだ」
70代とは思えない手際の良さで、佐藤は庭木の剪定を始めた。
「奥様」
作業の合間に、佐藤が亜里沙に話しかけてきた。
「この家には鴬がよく来るんですよ」
「鴬ですか?」
「ええ。夜になると特によく鳴きます」
佐藤は空を見上げながら続けた。
「西洋にもナイチンゲールという鳥がいて、これも夜に鳴く鳥なんです。西洋の鴬とも呼ばれるそうで」
その日の夜、亜里沙は初めて鴬の声を聞いた。澄んだ声が闇に響き、どこか物悲しい。
「綺麗な声ね」
「ああ」
源三郎は窓の外を見つめたまま答えた。
月明かりに照らされた庭は、昼間とは違う表情を見せていた。石灯籠の影が長く伸び、木々が風に揺れる度に、不思議な影絵を作る。
そして、家の裏手の林は、さらに深い闇に沈んでいた。
第3章「亀裂」
電話が鳴ったのは、雨の降る午後だった。
「亜里沙さん」
受話器の向こうの山田の声が、いつもより真剣だった。
「君は夫のことを何も知らない。僕は今、彼の素性を調べているんだ。十分に気をつけて」
「山田さん、私の夫のことを疑うのはやめてください」
強がりを言った。でも、その言葉を聞いて胸の奥で、何か言い知れない小さな不安が芽生え始めていた。
その週の土曜日、また山田から電話があった。
「総社のホテルに休暇で来ているんだ。鴬荘に寄らせてもらえないか」
夕食時、亜里沙は源三郎に切り出した。
「昔の同僚が観光で総社に来てるの。この家に招きたいんだけど」
「だめだ」
源三郎の声が予想外に強かった。
「人を家に入れるのは好きじゃない」
夫がこんなに居丈高に話すのは初めてだった。その夜、亜里沙は奇妙な夢を見た。山田が源三郎を殺す夢。山田は殺した夫の上に立っている。不思議なことに、夢の中の亜里沙は山田に感謝していた。まったくなんのお告げなんだろうか。また言い知れない不安が襲ってきた。
翌朝、源三郎を総社へ見送った後、庭師の佐藤が来た。
「昨今じゃこの辺りの過疎集落の家は二束三文なんですけど、この家は青木さんがきれいに改装されましたからねえ」
佐藤が言った。
「2000万で売ったって。結構な値段になりましたね」
亜里沙の耳に、その金額が引っかかった。
「えっ?3000万じゃないんですか?」
「いいえ、確か2000万と聞きましたよ」
「そんなはずはありません。絶対3000万円ですよ」亜里沙は強弁した。
「そうですか、でも青木さんは2000万円だといっていましたけどね」
夕方、帰宅した源三郎に尋ねた。
「家の値段のことなんだけど。佐藤さんの話では青木さんは2000万円で売ったそうですよ」
源三郎は一瞬、呆然としたように黙り込んだ。しばらく亜里沙の目を見ながら考えていた。そうしてようやく口を切った。
「ああ、即金で2000万、残り1000万は後払いということになっているんだ」
その説明に、どこか釈然としないものが残った。
最近、源三郎はよく裏の林に入っていく。
「何をしているの?」と聞くと、「ちょっとした散策だ」と曖昧な返事。
亜里沙は夫に対する不安感の原因がなんなのかと自問自答した。45歳のイケメンの夫。過去に女性関係がなかったはずがない。そんな疑いが頭をよぎった。そうだ、女がいたはずだ。
ある日、源三郎が外出している間に、書斎に忍び込んだ。机の引き出しはみんな鍵がかかっている。しかし亜里沙は鍵の置き場を知っている。鍵のかかった机の引き出しを開けると、中には書類の山。意味の分からない文書ばかりだ。
手紙の束を見つけて胸が締め付けられた。女からの手紙だろう。しかしよく見ると、それは自分が書いた手紙だった。女からの手紙であることに違いがないが、それで少しホッとした。他に女のいた兆候は見つからなかったからだ。
ある日、玄関で夫の落としたと思える手帳があった。その手帳には、当人しかわからない暗号のような文字が所狭しと書き込まれていた。なんかは全くわからない。でも何事も記録するという几帳面な性格は分かる。手帳の日付の欄を見ると、今日の日付の夜9時に「決行」という字が書いてあった。
「これ、落としていたわ」
帰宅した源三郎に手帳を差し出した。
「今日決行って何?」
源三郎の顔が蒼白になる。
「ああ、暗室で写真の現像をする予定なんだ」
「現像を決行っていうの?」
「そうだよ。写真用語さ」
言い繕う声に、違和感が残った。
次の週、佐藤が衝撃的な話をした。
「青木さんから聞いたんですが、源三郎様が電話をされて。奥様が田舎は寂しいからって、神戸に戻られるそうで」
「え?」
「別荘として使うとか。で、もう庭の手入れはいらないって」
「私、ここが気に入ってるのよ。神戸になんて戻るつもりないわ」
「おかしいですね。私は青木さんから、はっきりそう聞きましたよ。もう庭の手入れはいらないと聞いて、少しがっかりしているんですよ。ここの庭は立派ですからね。私の生きがいなんですよ」
その夜、源三郎に問いただした。
「佐藤さんから聞いたけど、私たち神戸に戻るの?」
源三郎の表情が一変した。
「馬鹿な年寄りが!なんてでたらめを!」
「源三郎さん?」
「年をとってボケたんだ!認知症だ。アルツハイマーかもしれん。そんなこと言った覚えは・・・」
怒鳴る声が部屋に響く。今までの温厚な夫からは想像もできない剣幕だった。
窓の外で鴬が鳴いた。その声が、どこか警告のように聞こえた。
第4章「正体」
雨の朝だった。源三郎が総社に出かけた後、亜里沙は再び書斎に忍び込んだ。机の引き出しを開け、書類を丹念に調べ始める。
一枚の古びた新聞が目に留まった。アメリカの新聞だ。日付は7年前。
「連続殺人容疑で日本人男性を取り調べ」という見出しに、亜里沙の心臓が早鐘を打った。
記事を読む手が震えた。
裕福な年配の女性が若い日本人男性「村上健一」と結婚。その直後、女性が失踪。男は女性の資産を相続した―。
それが一度ではない。二度目の同様の事件で、警察は村上健一の取り調べに乗り出した。しかし、死体は発見されず、有能な弁護士の活躍で不起訴。その後、彼は日本に帰国したという。
新聞には村上健一の写真が載っていた。眼鏡をかけ、髭を伸ばし、やや長めの黒髪の知的な印象の中年男性。一見、源三郎とは別人のように見える。
しかし。
亜里沙は写真を凝視した。髭を隠し、髪を短く想像し、眼鏡を外してみる。
「まさか…」
目元と眉の形。そして、あの特徴的な鼻筋。
源三郎はコンタクトレンズを使っていると言っていた。
全てが繋がった。
資産のある自分を妻に選んだ理由。
身寄りのない女性を狙った理由。
人里離れた一軒家を選んだ理由。
裏の林に執着する理由。
山田を来させなかった理由。
庭師を遠ざけようとした理由。
机の引き出しから、源三郎の手帳を取り出す。今日の夜9時のところに「決行」の文字。前回の「決行」は×印で消してある。
亜里沙は震える手で山田に電話をかけた。
「山田さん、お願い。すぐに来て」
「わかった。その前に、夫との会話は全て録音するんだ」
時計を見る。午後5時50分を指している。源三郎は6時に帰宅する。神戸からここまで、山田が来るのに最低でも3時間はかかるだろう。
9時までの時間を、どうにかして稼がなければならない。
亜里沙は台所に立ち、深く息を吸った。
源三郎は必ず食後にコーヒーを飲む。いつもより少し苦いコーヒーを淹れることにしよう。それが、自分の最後の切り札になるかもしれない。
窓の外では雨が強くなっていた。裏山の林が、黒い影のように揺れている。
夫は私をあの林に埋めるつもりなのだろうか。
時計の針が、ゆっくりと音を立てて進んでいく。
第5章「最後の晩餐」
亜里沙が二階の窓から見ていると源三郎が帰ってくるのが見えた。なんと車のトランクから包装紙に包んだスコップを取り出すではないか。亜里沙は心臓が破裂するように感じられた。
時計が6時を指した時、玄関の鍵が回る音がした。
「ただいま」
源三郎の声が、いつもより明るい。
「今日は特別な日だからね」
亜里沙は必死で平静を装った。
「お帰りなさい。夕食の準備ができてるわ」
食卓には、源三郎の好物を並べた。最後の晩餐―その言葉が頭をよぎる。
「今日は仕事がうまくいってね」
源三郎は饒舌に話し続ける。
亜里沙は相槌を打ちながら、時計をちらちらと見た。時間を稼がねばならない。亜里沙は必死であれこれと喋った。しかし源三郎はあまり乗ってこない。
「そうだ」
8時半を過ぎた頃、源三郎が立ち上がった。
「暗室で写真の現像をするんだ。君も見に来ないか」
「いえ、食後はもっとゆっくりしたいわ」
「十分、ゆっくりしたじゃないか」
「その前に」
亜里沙は震える声を抑えた。
「あなたに話しておきたいことがあるの」
「何かな?」
「私の過去のこと。一生黙っているつもりだったけど…良心が許さなくて」
「過去?」
源三郎が興味深そうに椅子に腰を下ろす。
「あなたにだけ話す私の秘密!」
「なんかな?」
「私の犯した犯罪よ」
「犯罪?」
その言葉を聞いて源三郎は目を輝かした。知能犯罪者の常として他人の知能犯罪には興味があるのだろう。
「私、以前は看護師だったの。勤務している病院である医師と親しくなったの。そしてその医師に冗談を装って聞いてみたの。後でわからないように人を殺す毒薬はあるかと。そしたら、あるよ、しかもこの病院にあるよというの。ただ厳重に管理されているから、持ち出せないけどねというの。結局、私はその医師に体を任せて、薬の管理方法を仔細に聞き出したの」
源三郎の目が輝いた。
「それでその毒薬を盗み出したのか?」
「ふふふ、それはご想像にお任せするわ」
「それで?」
「私はその後、看護師を辞めたの。というのも患者だった人に身寄りのない裕福なご老人がいて、私はその人にとても気に入られていたの。そしてある日、手を握られて、退院したら結婚して欲しいというのよ。そしたら君に不自由な目に遭わさないというの。結局はその後、私は看護師を辞めてその老人と結婚したの。彼は私のために高額の生命保険に入ってくれたの。自分の死後に君に不自由はさせないとね」
亜里沙は淡々と続けた。
「ある夜、彼はコーヒーを飲んだ後、『少し苦いね』って」
源三郎の表情が強張る。
「そして…しばらくして、息ができないともがいて、空に手を挙げて、喉を掻きむしって、空気が、空気がと言ったわ。私は窓を開けてあげたの。でもその人は死んだわ。警察の呼んだ医者の診断では、急な心臓発作ということになったの」
「それで、遺産を」
源三郎の声が掠れる。
「ええ。ところが私、そのお金で投資をして失敗してしまったの。そこでまた看護師に復職して、また金持ちそうな老人に親切にしてあげて・・・後はご想像にお任せするわ」
「お前はなんという悪なんだ・・・」
「あなたさっき飲んだコーヒーの味はどうでした?」
源三郎はギョッとしたように言った。
「さっきのコーヒー、いつもより少し苦かったな!! おっ、おっ、お前、まさか・・・」
「まさか、なんなの?」
「お前、さっきのコーヒーに毒を入れたのか?」
亜里沙はそれには直接答えずに、微笑んだ。
「あなたはもう動けないわ」
「おのれ、コーヒーに毒を!」
源三郎の手が宙を切る。
「くそっ…立てない」
「あなたはもう動けないわ」
時計が9時を指した瞬間、サイレンの音が響いた。
亜里沙は玄関に駆け寄った。山田と警官たちが飛び込んでくる。
「大丈夫だったか!」
山田が亜里沙を抱きしめる。
「中に男性が!」
警官の声が響く。
「椅子に座ったまま、心肺停止の模様です!」
窓の外で、鴬が鳴いていた。
エピローグ
警察の取り調べ室で、亜里沙は淡々と証言を続けた。
「看護師だったという話も、老人を殺したという話も、全て作り話です」
「毒薬の知識も?」
「はい。小説で読んだことを基に」
司法解剖の結果が出た。村上源三郎、享年45歳。死因は急性心不全。極度の精神的ショックによる心臓発作と推定された。
「あの男は確かに村上健一です」
山田が警察に提出した資料が、アメリカの捜査当局を動かした。
「ロサンゼルス郊外で、二人の遺体を発見。DNA鑑定の結果、行方不明になっていた被害者と確認されました」
結局、亜里沙は不起訴処分となった。
皮肉なことに、村上の全財産は亜里沙が相続することになった。殺して奪おうとした相手に、逆に全てを与えることになったのだ。
「本当に良かった」
山田が安堵の表情を見せる。
その後、二人は結婚した。
鴬荘は週末を過ごす別荘として残すことにした。
「お二人のご結婚、おめでとうございます」
庭の手入れに来た佐藤が、満面の笑みを浮かべる。
「またこうして来させていただけて、嬉しゅうございます」
夕暮れ時、庭の木々の間から鴬の声が聞こえてきた。
今では、その声は亜里沙に安らぎを与えてくれる。
かつての夫が裏の林で何をしていたのかは、今でも分からない。
でも、もうそれは重要ではなかった。
「お茶にしましょうか」
亜里沙は山田に微笑みかける。
「今度は本当のコーヒーを淹れるわ。安心なやつをね。本当はいつも安心なのよ」
窓の外で、鴬が再び鳴いた。
その澄んだ声は、新しい人生の始まりを祝福しているかのようだった。
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後書き
本小説「鶯荘殺人事件」は、これまで何度か映画化やラジオ放送されているアガサ・クリスティの短編スリラー小説Philomel Cottageをヒントにして、LLMのClaudeを使って書いたものである。
Philomelとはナイチンゲールという鳥の別名である。ナイチンゲールは夕暮れ後や夜明け前、また真夜中にも鋭く美しい声で鳴くことが特徴である。この習性から「夜に歌う」という意味の英語”Nightingale”や和名の「サヨナキドリ(小夜啼鳥)」という名前がつけられている。ナイチンゲールは西洋のウグイスと呼ばれることもあるが、これは美しい鳴き声という共通点があるためで、生物学的には全く別の種類の鳥である。
Philomelはギリシャ神話に登場するPhilomelaという人物が由来である。アテネ王パンディオンの娘プロクネは、トラキアの王テレウスと結婚し、息子イテュスをもうけた。結婚から5年後、プロクネは妹フィロメラに会いたいと願い、テレウスはアテネへ妹を迎えに行った。
テレウスはフィロメラの美しさに魅了され、トラキアへの帰路で彼女を森の小屋に連れ込み暴行。さらに、この罪が発覚することを恐れ、フィロメラの舌を切り取った。そして、プロクネにはフィロメラが死んだと偽りの報告をした。
言葉を奪われたフィロメラは、自分の身に起きた出来事を織物に描き、それをプロクネに届けることに成功した。真実を知ったプロクネは激しい怒りに駆られ、復讐を決意した。プロクネは自分の息子イテュスを殺し、その肉で料理を作ってテレウスに食べさせた。
真実を知ったテレウスが斧を手に姉妹を追いかけると、神々は彼らを鳥に変えた。テレウス:ヤツガシラ(または鷹)に変身、プロクネ:ツバメに変身、フィロメラ:ナイチンゲールに変身。