要旨
本研究は、登山という身体・空間的活動が人間の認知機能、感情調整、時間知覚、および自己概念に与える多層的影響を、進化心理学・認知神経科学・環境心理学の三つの理論的枠組みを統合して検討するものである。人類は数百万年にわたり、移動・探索・危険回避・社会的協力を伴う多変化環境の中で進化してきたが、現代社会における都市生活はこの進化的背景と著しく乖離している。この乖離が慢性的なストレス・注意疲労・時間の均質化という現代的病理を生み出していると考えられる。
本論文は登山体験を詳細な分析単位として採用し、地形変化に応じた認知状態の周期的遷移モデルを提案する。具体的には、①急斜面での外的集中(フロー状態)、②稜線・緩斜面での内省的思索、③展望地点での畏敬(awe)体験、④森林・避難空間での深層内省という四段階からなる「山岳認知サイクル」を定式化する。
時間知覚に関しては、経験密度仮説に基づき、感覚刺激の多様性と新奇性が記憶密度を増大させ、主観的時間を延長させるメカニズムを論じる。最終的に本論文は、登山体験が進化的適応環境への「一時的回帰」として機能し、認知的回復・感情的成熟・自己拡張をもたらす可能性を提言する。
キーワード:登山、認知科学、進化心理学、畏敬感情、時間知覚、デフォルトモードネットワーク、場所記憶、Prospect-Refuge理論