AI小説「クレムリンのひび割れ」第二部

第二部:洪水の前兆

第七章:空っぽの食卓

十一月に入り、モスクワ郊外は本格的な冬の訪れを告げていた。アンナ・イワノワが勤める公立学校の教室は、暖房が十分に効かず、生徒たちはコートを着たまま授業を受けていることも珍しくなかった。だが、寒さ以上に生徒たち、そして教師たちを苦しめているものがあった。
「先生、今日もお昼ご飯、ないの?」
授業の合間、一人の生徒がおずおずと尋ねてきた。アンナは胸が締め付けられる思いで、力なく頷いた。先週から、学校給食が完全に停止してしまったのだ。理由は「予算不足と食材調達の困難」と説明されたが、要するに、国が、あるいは地方自治体が、子供たちの食事すら保証できなくなったということだ。
親が弁当を持たせられる家庭はまだいい。だが、共働きで余裕のない家庭や、父親が「動員」されてしまった家庭の子供たちは、昼食を抜くしかない。空腹を抱えた子供たちは、授業に集中できるはずもなかった。教室には、以前のような活気はなく、どんよりとした諦めにも似た空気が漂っていた。
教師たちの間にも、疲労と不満が広がっていた。給料は上がらないのに、仕事の負担だけが増えていく。教材や備品の不足も深刻で、アンナは自腹を切って画用紙やチョークを買うこともあった。
「私、もう辞めようと思うの」
放課後、同僚のナターリアが、アンナに打ち明けた。彼女は、夜間にスーパーマーケットでレジ打ちのアルバイトを始めたが、それでも生活は苦しいという。 「教師の仕事は好きだったけど、これじゃ生きていけないわ。夫もいつ動員されるか分からないし…」
アンナは引き止める言葉を見つけられなかった。ナターリアだけではない。ベテランの数学教師は、健康上の理由で早期退職を選んだ。若い歴史教師は、もっと給料の良い仕事を探すと言って去っていった。かつては「聖職」とも呼ばれた教師という仕事が、今や、生活のために捨てざるを得ない選択肢の一つになり下がっていた。まさに社会の屋台骨が、ギシギシと音を立てて崩れていく様だった 。
アンナ自身も、自分の貯金がいつまで持つのか、不安だった。息子ミーシャからの連絡は、相変わらず途絶えがちだ。彼の安否への不安と、日々の生活苦。二重の重圧が、彼女の肩にのしかかる。
その日の帰り道、アンナは市場に寄ったが、値段を見て、結局、黒パンと少しばかりの野菜しか買えなかった。アパートに戻り、一人で質素な夕食をとる。テレビをつければ、相変わらず勇ましい軍楽と、アナウンサーの明るい声が流れてくる。だが、アンナにはもう、その声は届かなかった。
空っぽの食卓と、空っぽの教室。そして、希望を失いかけた人々の心。この国は、一体どこへ向かっているのだろうか。アンナは、窓の外の暗い冬空を見上げ、深い溜め息をついた。雨は、いつの間にか雪に変わっていた。

第八章:沈黙の共謀者

モスクワの冬は、重く、暗い。セルゲイ・アブラモフは、市内の高級レストランの、人目につかない個室で、一人の男と向き合っていた。男の名は、ヴィクトル・ソコロフ。FSB(連邦保安庁)の高官であり、ディミトリ・パブロフ長官の腹心中の腹心と目されている人物だ。アブラモフのようなオリガルヒが、このような人物と公然と会うことはない。今日の会合も、偶然を装った、周到に準備されたものだった。
テーブルには、キャビアや最高級のウォッカが並んでいるが、二人の間には張り詰めた空気が流れている。
「…それで、セルゲイ・ミハイロヴィチ、最近のビジネスの状況はいかがですかな?」 ソコロフが、探るような目でアブラモフに尋ねた。その声は低く、感情を読み取らせない。
「まあ、ご存知の通りですよ、ヴィクトル・イワノヴィチ」アブラモフは肩をすくめて見せた。「西側の連中は、我々の首を絞めることしか考えていない。そして、残念ながら…我々の『指導部』は、その状況を悪化させることしかしていないようだ」
言葉を選びながら、アブラモフは核心に触れた。ソコロフは、表情を変えずにウォッカのグラスを傾けた。
「『指導部』へのご不満ですか?」
「不満というより、懸念ですな」アブラモフは続けた。「このままでは、国が持たない。経済は破綻し、社会は混乱する。我々が築き上げてきたもの全てが、水泡に帰すことになる。それは、あなた方にとっても、望ましい未来ではないでしょう?」
沈黙が流れた。ソコロフは、じっとアブラモフの目を見つめている。試しているのだ。アブラモフの覚悟を、そして、どこまで信用できるのかを。FSBの高官である彼にとって、この会話は、一歩間違えれば自らの破滅につながる危険な賭けだ。
やがて、ソコロフは口を開いた。「…懸念を抱いているのは、あなただけではない。我々も、現状を憂慮している。あまりにも多くの血が流れすぎた。そして、得るものはあまりにも少ない」
その言葉は、慎重に選ばれていたが、アブラモフには十分だった。ソコロフ、そして彼が代表するパブロフ長官の一派もまた、ヴォルコフ大統領の現体制に限界を感じているのだ。
「何か…変革が必要なのではないでしょうか?」アブラモフは、さらに踏み込んだ。「この国を、破滅から救うための…」
「変革には、痛みが伴います」ソコロフは静かに言った。「そして、強い意志と、周到な準備が不可欠だ」
具体的な計画には、まだ誰も触れない。だが、暗黙の了解が、二人の間に生まれた。これは、危険な共謀の第一歩だ。アブラモフは、他のオリガルヒや、軍の一部にも、同様の考えを持つ者がいることを知っていた。だが、彼らを一つに束ね、具体的な行動に移すには、FSBのような強力な組織の一部を取り込むことが不可欠だった。
会合が終わり、レストランを出ると、冷たい夜気がアブラモフの頬を刺した。彼は、自分が恐ろしく危険なゲームに足を踏み入れたことを自覚していた。だが、後戻りはできない。彼は、他の「沈黙の共謀者」たちを探し出し、静かに、しかし着実に、クレムリンの壁に更なる亀裂を入れていく決意を固めた。それは、自らの生き残りと、この国の未来を賭けた、壮大な陰謀の始まりだった。

第九章:危険な追跡

エレナ・ソロキナは、モスクワ市内のカフェの片隅で、向かいに座る情報提供者の男の話に耳を傾けていた。男は神経質そうに周囲を見回し、声を潜めている。彼は、セルゲイ・アブラモフに近い筋から、オリガルヒたちの不穏な動きに関する断片的な情報を掴んだのだという。
「…先月、ドバイで何人かが極秘に会合を持ったらしい。表向きは旧交を温めるため、ということだったが…参加者のリストがどうもきな臭い」
男が震える手でメモをエレナに滑らせた。そこには、アブラモフを含む数人のオリガルヒの名前と、FSBのヴィクトル・ソコロフの名前が書かれていた。
「ソコロフ? パブロフ長官の側近じゃないか…」エレナは息をのんだ。これは単なる経済的な会合ではない。政治的な、それも体制を揺るがしかねない何かが動き出している可能性が高い。
「これ以上のことは分からない。だが、気をつけろ。この件を嗅ぎまわっていると知られたら、ただでは済まないぞ」
男はそう言い残し、足早にカフェを去っていった。エレナはメモを素早くポケットにしまい込み、カフェを出た。背中に突き刺さるような視線を感じた気がしたが、振り返りはしなかった。
アパートに戻ったエレナは、すぐさま情報の裏付け調査を開始した。テレグラムの匿名チャンネル、海外の報道、過去の資料…。パズルのピースを繋ぎ合わせようとするが、決定的な証拠は見つからない。関係者に接触しようとしても、誰もが口を固く閉ざしていた。以前は協力的だった情報源さえ、最近はエレナからの連絡を避けているようだった。
そして、当局からの圧力も、日に日に増しているのを感じていた。彼女のテレグラムチャンネル「モスクワ・インサイト」には、運営者情報を開示するよう求める公式な(そして脅迫的な)通知が届くようになった。インターネットの接続は頻繁に遮断され、アパートの前には、見慣れない黒い車が停まっていることが多くなった。
ある夜、エレナが帰宅すると、アパートのドアの鍵穴に何かが詰められていた。嫌がらせだ。そして、警告でもある。「お前は見られているぞ」という無言のメッセージ。恐怖が、冷たい手のようにエレナの心臓を掴んだ。
それでも、彼女は調査を諦めなかった。この国の運命を左右するかもしれない重大な陰謀が進行している可能性がある。それを白日の下に晒すことが、ジャーナリストとしての自分の使命だと信じていた。
彼女は、暗号化された通信手段を使い、より慎重に、より深く、情報を掘り下げていった。ターゲットは、アブラモフ、ソコロフ、そして彼らの周辺人脈。危険な追跡は、まだ始まったばかりだった。だが、彼女は知らなかった。彼女の追跡は、すでに別の誰かによって、厳重に監視されているということを。その視線は、ルビャンカの奥深くから注がれていた。

第十章:地方の砦

極東の厳しい冬が、その猛威を振るい始めていた。ハバロフスクの知事公館では、ヴィクトル・カザンツェフが、地域のエネルギー確保という喫緊の課題に取り組んでいた。モスクワから割り当てられるはずの燃料供給は、質・量ともに不足しており、このままでは厳しい冬を乗り切れない可能性があった。中央政府は、ウクライナでの戦争遂行を最優先し、地方の窮状には耳を貸そうとしなかった。
「モスクワ経由では埒が明かん」カザンツェフは、側近たちを集めた会議で断言した。「我々自身のルートで、エネルギーを確保する必要がある」
彼の視線は、壁に掛けられた地図、特に隣接する国々へと向けられていた。中国、そして海を隔てた日本や韓国。モスクワを通さずに、これらの国々と直接交渉し、燃料や必要な物資を輸入することは可能か? それは、連邦政府の権限を逸脱する、極めて危険な賭けだった。だが、カザンツェフには、他に選択肢はないように思えた。
「まずは、中国の地方政府レベル、そして日本の北海道庁あたりと、非公式に接触してみろ」カザンツェフは指示を出した。「あくまで『地域間の経済・文化交流』という名目でだ。燃料や医薬品、生活必需品の『緊急融通』の可能性を探れ」
側近たちは、その指示の持つ意味の重大さを理解し、緊張した面持ちで頷いた。これは、事実上の独立外交の始まりだった。
ちょうどその頃、モスクワから中央監査委員会の査察官が、抜き打ちでハバロフスクに派遣されてきた。表向きは「地方行政の効率化に関する調査」だが、真の目的は、カザンツェフの不穏な動きを牽制し、中央の統制を再確認することにあるのは明らかだった。
カザンツェフは、この査察官を丁重に、しかし巧みに扱った。豪華な歓迎レセプションを開き、地元の名産品をふんだんに振る舞い、模範的な行政文書を山のように提示した。一方で、査察官が本当に見たがるであろう、地域のエネルギー備蓄状況や、独自の資源管理に関する核心的な情報からは、巧みに遠ざけた。
「いやはや、カザンツェフ知事。あなたの地方は、実に良く統治されている。モスクワで聞くような悪い噂は、全くの杞憂でしたな」
数日後、査察官は満足げにそう言い残し、帰路についた。カザンツェフは、笑顔で彼を見送ったが、内心では冷笑していた。モスクワの官僚など、所詮この程度だ。彼らは、書類と形式的な数字しか見ていない。この広大な土地で、人々がどう生き、何に苦しんでいるのか、全く理解していない。
査察官が去った後、執務室に戻ったカザンツェフは、窓の外の雪景色を見つめた。彼の築き上げつつある「地方の砦」は、まだ脆い。だが、モスクワの中央集権という古い壁が崩れ始めている今、この砦こそが、極東の人々を守る唯一の希望になるかもしれない。
彼は、日本や中国との非公式接触の結果報告を待っていた。冬は長く、厳しい。だが、春は必ず来る。そして、その春には、極東に新しい風が吹いているだろう。彼は、その風を起こす側に立つことを、固く決意していた。

第十一章:良心の呵責

アレクセイ・ペトロフは、上司のコロリョフ大佐から新たな任務を与えられた時、内心で呻き声を上げた。ターゲットは、独立系ジャーナリストのエレナ・ソロキナ。彼女のテレグラムチャンネル「モスクワ・インサイト」が「国家の安定を脅かす偽情報を拡散している」として、厳重な監視対象になったのだという。
「彼女の行動を徹底的にマークしろ。接触する人物、資金源、そして…弱みを洗い出すんだ」 コロリョフ大佐は、冷徹な口調で命じた。
アレクセイは、エレナ・ソロキナの名前を知っていた。彼女のチャンネルは、真実を知りたいと願う一部の市民や、体制に不満を持つ者たちの間で、密かに、しかし広く読まれていた。彼自身も、匿名で何度かアクセスしたことがある。そこに書かれている内容は、彼が内部で知る情報と、恐ろしいほど一致していた。彼女は、危険を顧みず、この国の腐敗と欺瞞を暴こうとしているだけだ。「国家の安定を脅かす」のは、彼女ではなく、この体制そのものではないのか?
任務とはいえ、良心が激しく痛んだ。自分は、真実を語ろうとする人間を、闇に葬り去るための手助けをさせられるのか? あの日、ポクロフスクの報告書を改竄した時と同じ、いや、それ以上の罪悪感が彼を襲った。
数日間、アレクセイはエレナの監視を続けた。アパートの張り込み、通信の傍受(限定的なものだが)、過去の経歴の洗い出し…。だが、調べれば調べるほど、彼女が「危険人物」であるという証拠は見つからなかった。むしろ、浮かび上がってきたのは、強い信念と勇気を持った一人のジャーナリストの姿だった。彼女は、自分と同じように、この国の現状を憂い、必死で何かを変えようとしているのではないか?
ある晩、アレクセイは監視用のモニターで、エレナが運営するチャンネルの新しい投稿を見た。それは、オリガルヒたちの不審な動きと、FSBの一部高官の関与を示唆する、非常に危険な内容だった。彼女は、核心に近づきすぎている。このままでは、本当に消されてしまうかもしれない。
アレクセイは、葛藤した。組織への忠誠か、個人の良心か。沈黙か、行動か。
長い逡巡の末、彼は決断した。組織を裏切ることはできない。だが、一人の人間として、見殺しにすることもできない。
彼は、庁舎内の誰も使っていない端末を使い、完全に匿名化された経路を通じて、エレナ・ソロキナに短いメッセージを送った。
『気をつけろ。あなたは監視されている。深入りしすぎるな。』
送信ボタンを押す指が、わずかに震えた。これが正しいことなのか、間違っていることなのか、彼には分からなかった。ただ、何もしないでいることだけは、もう耐えられなかったのだ。
メッセージを送った後、彼はすぐに端末のデータを消去し、足早にその場を立ち去った。ルビャンカの廊下を歩きながら、彼は自分の心臓が激しく鼓動しているのを感じていた。彼は、危険な境界線を越えてしまったのかもしれない。だが、不思議と後悔はなかった。暗闇の中で、ほんの少しだけ、人間としての尊厳を取り戻せたような気がしたからだ。

第十二章:最後の切り札

クレムリンの聖ゲオルギーホール。眩いばかりのシャンデリアの下、ウラジスラフ・ヴォルコフ大統領は、テレビカメラの放列を前に、国民に向けた演説を行っていた。背景には、金色の双頭の鷲の紋章が厳かに輝いている。その表情は自信に満ち溢れ、声には力が込められていた。
「…親愛なる国民諸君! 我々は、祖国の偉大な歴史において、新たな試練に直面している。西側諸国は、我々の主権を踏みにじり、我々の伝統的な価値観を破壊しようと企んでいる。だが、我々は決して屈しない! 我々の軍隊は、特別軍事作戦において、勇敢に戦い、着実に目標を達成しつつある。経済もまた、不当な制裁にもかかわらず、驚くべき回復力を見せている。我々は団結し、この試練を乗り越え、より強く、偉大なロシアを築き上げるのだ!」
演説は、力強い言葉と、愛国心を鼓舞するレトリックで彩られていた。だが、その言葉は、アンナのような一般市民の苦しい生活や、アレクセイが知る前線の惨状とは、あまりにもかけ離れていた。それは、現実から遊離した、空虚なプロパガンダのように響いた。
同じ頃、FSB長官ディミトリ・パブロフは、ルビャンカの自室で、巨大なモニターに映し出されるヴォルコフの演説を、冷めた目で見つめていた。彼のデスクには、部下のソコロフからもたらされた、オリガルヒのアブラモフ一派の動きに関する最新の報告書が置かれている。クーデター計画は、パブロフが予想していたよりも、はるかに具体化し、危険な段階に入りつつあった。
パブロフは、長年ヴォルコフに仕え、その側近中の側近として権力を握ってきた。だが、彼は決して狂信的な忠誠者ではなかった。彼は冷徹な現実主義者であり、常に自らの権力基盤を維持し、拡大することだけを考えてきた。そして今、その現実主義的な計算が、ヴォルコフという存在が、もはや「資産」ではなく「負債」になりつつあることを示していた。
戦争の泥沼化、経済の破綻、エリート層の離反…。このままヴォルコフと共に沈むのは、得策ではない。かといって、アブラモフのような成り上がりのオリガルヒに、やすやすと権力を明け渡すつもりも毛頭なかった。
パブロフは、チェスの名手のように、盤面全体を見渡していた。ヴォルコフ派、クーデター派、そして自分自身。どの駒をどう動かせば、最終的に自分が勝者となれるのか? 彼は、両方の陣営に情報を流し、疑心暗鬼を煽り、互いを牽制させながら、最適なタイミングで自らの「最後の切り札」を切ろうと考えていた。
演説を終えたヴォルコフが、満足げにカメラに手を振っている。その姿を見ながら、パブロフは静かに呟いた。 「…英雄を演じられるのも、あと僅かかもしれんな」
彼の灰色の目には、何の感情も浮かんでいなかった。ただ、冷たい計算だけが、その奥で静かに回転していた。クレムリンの権力闘争は、最終局面に向けて、水面下で激しさを増していく。そして、その鍵を握るのは、沈黙を守るこの男、ディミトリ・パブロフだった。