第三部:濁流
第十三章:決行前夜
十二月、モスクワは凍てつくような寒さと、重苦しい沈黙に包まれていた。だが、その水面下では、国家の運命を左右する計画が、最終段階を迎えようとしていた。
セルゲイ・アブラモフは、市内某所にある自身の隠れ家で、クーデター計画の最終確認を行っていた。部屋には、彼と同じくヴォルコフ体制に見切りをつけたオリガルヒ数名と、軍やFSB内部の協力者たちが集まっている。壁に掛けられた大型モニターには、クレムリン周辺の地図や、ターゲットとなる重要施設の警備体制に関する情報が映し出されていた。
「作戦開始は、明朝午前4時。我々の部隊が、大統領府、国営テレビ局、主要通信施設を同時に制圧する」 元軍人の協力者が、冷静に手順を説明する。「FSB内のソコロフ同志の協力により、内部からの抵抗は最小限に抑えられるはずだ」
アブラモフは、神経質に指を組んだ。計画は、理論上は完璧に見えた。ディミトリ・パブロフ長官の腹心であるソコロフを引き入れたことで、FSB内部の動きも把握できているはずだった。だが、一抹の不安が拭えない。数日前から、計画に関わるメンバーの一人と連絡が取りにくくなっているのだ。単なる偶然か、それとも…。
「…情報漏洩の可能性は?」アブラモフは低い声で尋ねた。
「万全を期している。だが、100%とは言えん」元軍人は率直に答えた。「我々は、時間との戦いでもある。これ以上、決行を遅らせるわけにはいかない」
部屋に緊張が走る。誰もが、この計画が失敗した場合の結末を理解していた。それは、単なる失脚や資産没収では済まない。裏切り者として、文字通り命運が尽きることを意味していた。それでも、彼らはもう引き返せなかった。現状維持は、緩やかな死を待つことと同じだったからだ。
「成功を祈ろう」アブラモフは、自分に言い聞かせるように言った。「我々は、ロシアを救うのだ」
その頃、モスクワの別のアパートでは、エレナ・ソロキナが、最後の決断を迫られていた。数日前、匿名で送られてきた警告メッセージ。『気をつけろ。あなたは監視されている。深入りしすぎるな。』その警告の意味を、彼女は痛いほど理解していた。彼女が集めた情報は、オリガルヒとFSBの一部が結託した、国家転覆計画の核心に触れるものだった。
これを公表すれば、クーデターそのものを阻止できるかもしれない。だが、それは同時に、彼女自身の命を危険に晒すことになる。いや、おそらく助からないだろう。しかし、沈黙すれば、この国は新たな独裁者か、あるいは更なる混乱に陥るかもしれない。
エレナは、震える手で、暗号化されたUSBメモリを握りしめた。ここには、彼女が集めた証拠と、国際的な報道機関へのコンタクト先が記録されている。窓の外は、深い闇に包まれている。決行の時は、刻一刻と迫っていた。
彼女は、意を決してラップトップを開いた。これが、ジャーナリストとしての、そして一人のロシア国民としての、最後の仕事になるかもしれない。彼女は、闇の中に一条の光を灯すため、震える指でキーボードを叩き始めた。
第十四章:クレムリンの銃声
午前四時。モスクワを覆う深い闇と静寂は、突如として破られた。市内の複数の場所で、同時に行動が開始されたのだ。
セルゲイ・アブラモフが手配した、私兵に近い忠実な部隊や、内通していた軍の一部隊が、計画通りクレムリンのスパスカヤ塔ゲート、国営テレビ局「第一チャンネル」本社、そして主要な通信センターへと向かった。彼らは、最小限の抵抗でこれらの重要拠点を制圧し、ヴォルコフ大統領の拘束、あるいは排除へと繋げる手筈だった。FSB内の協力者、ソコロフからは「内部の警備体制は、一時的に無力化される」との連絡を受けていた。
だが、現実は計画通りには進まなかった。
クレムリンのゲートに接近した部隊は、予想外の激しい抵抗に遭遇した。FSBの特殊部隊「アルファ」と見られる重装備の兵士たちが、待ち構えていたかのように応戦してきたのだ。銃声と曳光弾が、冬の未明の空気を切り裂く。アブラモフの部隊は、初動で大きな損害を被り、前進を阻まれた。
「どうなっている!? ソコロフはどうした!」 隠れ家で作戦を指揮していたアブラモフは、無線に向かって怒鳴った。だが、ソコロフとの連絡は、作戦開始直後から途絶えていた。裏切られたのか? それとも、何らかの不測の事態が起きたのか?
国営テレビ局でも、同様の混乱が生じていた。制圧部隊は建物内への侵入には成功したものの、スタジオや送信施設のある主要フロアは、内部から固く封鎖されていた。そこには、FSB長官パブロフ直属の部隊が配置されていたのだ。彼らは、クーデター部隊の侵入を予期していたかのように、冷静に防衛線を築いていた。
「罠だ…!」 現場の指揮官からの悲鳴に近い報告が、アブラモフの耳に届いた。
市内各所で散発的な銃撃戦が始まり、その音は、まだ眠りについていたモスクワ市民の一部をも叩き起こした。何が起きているのか分からないまま、窓から恐る恐る外を覗く人々。サイレンの音、遠くで響く爆発音らしきもの。街は、一夜にして戦場へと変わろうとしていた。
アブラモフは、隠れ家のモニターに映し出される混乱した状況を呆然と見つめていた。完璧なはずだった計画は、開始早々、至る所で綻びを見せ始めていた。パブロフ、そしてソコロフは、最初から自分たちを利用するつもりだったのか? それとも、土壇場でヴォルコフ側に寝返ったのか?
いずれにせよ、事態は最悪の方向へと転がり始めていた。クレムリンの壁に響く銃声は、彼らのクーデターが、そしておそらくは彼ら自身の運命が、すでに破綻し始めていることを告げる弔鐘のように聞こえた。アブラモフは、額に滲む冷や汗を拭った。まだ終わってはいない。だが、勝利への道は、急速に閉ざされつつあるように思えた。
第十五章:炎上する都市
クレムリン周辺で始まった銃撃戦のニュースは、夜が明けると共に、SNSや口コミを通じて瞬く間にモスクワ市内に広がっていった。国営テレビは「一部のテロリストによる騒乱」と報じていたが、その発表を鵜呑みにする者は少なかった。人々は、何かもっと大きな、国家の根幹を揺るがすような事態が起きていることを、肌で感じ取っていた。
不安は、急速にパニックへと変わった。
まず、銀行のATMに行列ができた。誰もが、自分の預金が紙くずになる前に、少しでも現金を引き出そうと必死だった。やがて、いくつかの支店では現金が底をつき、人々は怒号を上げてシャッターを叩いた。
スーパーマーケットや食料品店にも、人々が殺到した。棚からは、パンや缶詰、水といった必需品が、あっという間に消えていく。一部の地域では、混乱に乗じた略奪も始まった。割られたショーウィンドウ、路上に散乱する商品…。法の支配が、急速に失われていく感覚があった。
アパートの部屋で、アンナ・イワノワは、窓の外から聞こえてくるサイレンの音や、遠くの喧騒に耳を澄ませながら、恐怖に震えていた。テレビは断片的な情報しか伝えず、インターネットも不安定で、何が真実なのか分からない。ただ、とてつもなく悪いことが起きているということだけは確かだった。
彼女の頭を占めているのは、ただ一つ、息子のミーシャのことだった。彼は今、どこで何をしているのだろうか? 前線も、この混乱の影響を受けているのだろうか? 連絡を取ろうにも、電話は全く繋がらない。無事を祈ることしかできなかった。
「…食料を確保しないと」
アンナは、自分を奮い立たせるように呟いた。いつ、この混乱が収まるのか分からない。家に籠っていても、食料が尽きれば生きていけない。彼女は、なけなしの現金と買い物袋を手に、意を決してアパートの外に出た。
街の光景は、一変していた。道行く人々の顔には、恐怖と不安が浮かび、誰もがお互いを警戒しているようだった。近くの商店街では、いくつかの店がシャッターを閉ざし、開いている店には長い行列ができていた。遠くからは、まだ時折、銃声のような音が聞こえてくる。
アンナは、比較的空いている小さな食料品店を見つけ、列に並んだ。買えるものは限られていたが、それでも、数日分のパンと缶詰、そして水を確保することができた。重くなった買い物袋を抱え、アパートへの道を急ぎながら、彼女は思った。クレムリンで誰が権力を握ろうと、結局、苦しむのは私たちのような普通の人々なのだ、と。
部屋に戻ったアンナは、ドアに念入りに鍵をかけ、バリケードのように家具を押し当てた。そして、確保した食料をテーブルに並べ、じっとそれを見つめた。これが、この「偉大な国」の首都の現実なのだ。煌びやかなプロパガンダの裏側で、人々は生き残るために、原始的な恐怖と戦っている。
窓の外では、雪が降り続いていた。それはまるで、この街の混乱と罪を、すべて覆い隠そうとしているかのようだった。
第十六章:境界線にて
市内に響き渡るサイレンと、時折聞こえる銃声の合間を縫って、エレナ・ソロキナは、暗号化されたUSBメモリをコートの内ポケットに隠し持ち、アパートの裏口から慎重に外へ出た。彼女の目的は、事前に打ち合わせていた西側メディアの協力者が待つ、安全な場所へと移動することだった。そこでなら、集めた情報を世界に発信できるはずだ。
だが、路地に出た瞬間、彼女の前に一人の男が立ちはだかった。黒いコートを着た、見覚えのある顔。数日前、カフェで情報提供者と会っていた時に、近くの席にいた男だ。そして、おそらく、彼女のアパートの前に停まっていた黒い車の運転手でもある。FSBのエージェント、アレクセイ・ペトロフだった。
エレナの心臓が凍りついた。やはり、監視されていたのだ。そして、この最悪のタイミングで現れたということは…。
「…何の用です?」エレナは、震える声を抑えつけ、精一杯の平静を装って尋ねた。
アレクセイは、無表情にエレナを見つめていた。彼の灰色の目には、任務遂行の冷徹さと、隠しきれない人間的な葛藤が混じり合っているように見えた。彼は、エレナが何をしようとしているのか、そして彼女が持つ情報がいかに危険なものかを知っているはずだ。
「ソロキナさん、あなたは危険な領域に足を踏み入れすぎた」アレクセイは静かに言った。「今すぐ、その持っているものを渡して、ここから立ち去るんだ。そうすれば、まだ…」
「渡すものなんて、何もありません」エレナはきっぱりと答えた。「私はジャーナリストです。真実を伝える義務がある」
「真実?」アレクセイは、自嘲するように口の端を歪めた。「この国で、真実が何の役に立つ? それは、あなたを破滅させるだけだ」
「それでも、私は諦めない」エレナの瞳に、強い意志の光が宿った。「あなたこそ、どちら側に立つつもりです? 体制の犬であり続けるのですか? それとも…」
アレクセイは、エレナの言葉にぐらついた。彼の脳裏には、改竄した報告書、前線で死んでいく若者たち、そして、このジャーナリストが命がけで守ろうとしている「真実」の重みが交錯した。組織への忠誠、自己保身、そして良心の呵責。彼は、まさに境界線の上に立たされていた。
その時、遠くから複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。おそらく、FSBの増援か、あるいはクーデター側の部隊か。どちらにしても、ここに長居はできない。
アレクセイは、一瞬、強く目を閉じた。そして、再び目を開けた時、彼の表情からは迷いが消えていた。
「…時間がない。裏の通りに車を回してある。それに乗れ」彼は、エレナの腕を掴み、低い声で言った。「USBは、移動中に送信する手はずを整える。だが、保証はない。それでも行くか?」
エレナは、驚きに目を見開いた。このFSBエージェントが、自分を助けようとしている? 信じられなかったが、彼の目には、嘘や罠があるようには見えなかった。そして、彼女にはもう、選択肢はなかった。
「…行きます」
エレナは、力強く頷いた。アレクセイは、エレナの腕を引いて、迫りくる足音から逃れるように、闇の中へと走り出した。彼は、自らの意志で境界線を越えたのだ。その先にあるのが、光明なのか、それとも更なる闇なのか、まだ誰にも分からなかった。
第十七章:権力の空白
夜明けと共に、モスクワを揺るがした銃声は徐々に鳴り止んでいった。だが、それは秩序の回復を意味するものではなかった。むしろ、より深く、底知れない混乱の始まりだった。
セルゲイ・アブラモフらによるクーデター計画は、FSB長官ディミトリ・パブロフの裏切り(あるいは、計算された行動)により、完全な成功には至らなかった。アブラモフ自身は、間一髪で隠れ家から脱出したものの、計画に参加したオリガルヒや軍関係者の多くは拘束されるか、戦闘で命を落とした。
しかし、クーデター部隊が引き起こした混乱は、クレムリンの中枢に致命的な打撃を与えていた。ヴォルコフ大統領は、クーデター発生直後からその所在が不明となっていた。拘束されたのか、殺害されたのか、あるいはどこかへ逃れたのか…情報は錯綜し、誰も真実を知らなかった。大統領府の機能は完全に麻痺状態に陥っていた。
国営テレビは、パブロフ長官の名前で、「一部の反逆分子による秩序を乱す試みは鎮圧された。国家の安定は維持されている」との声明を繰り返し放送していた。だが、その言葉を信じる者は、もはやほとんどいなかった。パブロフ長官自身も、公の場には姿を現さず、FSB本部から指示を出していると噂されたが、その指示も矛盾し、混乱していた。彼は、クーデター派を鎮圧はしたものの、ヴォルコフ不在の状況で、完全な権力を掌握するには至っていなかったのだ。
モスクワは、事実上の「権力の空白」状態に陥っていた。誰が本当の指導者なのか分からない。どの命令を信じればいいのか分からない。軍も、警察も、官僚機構も、互いに疑心暗鬼となり、動きが取れなくなっていた。
この中央の麻痺状態は、瞬く間に地方へと波及した。
地方政府からモスクワへの定時連絡が、次々と途絶え始めた。通信回線自体の障害なのか、それとも地方が意図的に連絡を絶っているのか、判別がつかなかった。特に、シベリアや極東といった遠隔地からの情報は、ほとんど入ってこなくなっていた。
ルビャンカのパブロフ長官の執務室にも、地方の不穏な動きを伝える断片的な報告が届き始めていた。いくつかの地域の知事が、独自の「非常事態宣言」を発令し、地域の軍や警察組織を自らの指揮下に置こうとしているという。その中には、極東のヴィクトル・カザンツェフの名前も含まれていた。
だが、今のパブロフには、地方の動きにまで対処する余裕はなかった。まずは、モスクワの権力基盤を固め、自らが新たな支配者であることを内外に示す必要があった。しかし、ヴォルコフという絶対的な中心を失ったクレムリンは、もはや一枚岩ではなかった。彼の足元でさえ、権力を狙う者たちの新たな策謀がうごめき始めていた。
モスクワの空は、鉛色の雲に覆われたままだった。クーデターの銃声は止んだが、帝国の心臓部には、致命的な傷が刻まれた。そして、その傷口からは、国家そのものが崩壊していく、静かだが止めることのできない出血が始まっていた。権力の空白は、やがて来るべき、より大きな分裂と混沌の序章に過ぎなかった。