静かな反逆
松田卓也+Claude
第1章:「孤独な居場所」
薄暗いスターバックスの片隅で、雅弘は温かいラテを両手で包み込んでいた。昼下がりの柔らかな日差しが、店内に流れるジャズの音色とともに、彼の周りを優しく包み込む。週末のこの時間、彼にとってはようやく自分を取り戻せる貴重な瞬間だった。
「また今日も、ここに逃げ込んでしまった」
つぶやきながら、MacBookの画面に映る人工知能のプログラミングコードに目を落とす。四十五歳、妻子ある身でありながら、休日になると決まってカフェを転々とする自分を、どこか悲しく思った。しかし、それ以外に居場所がなかった。
ソフトウェアエンジニアとしての二十年のキャリアは、彼に安定した収入こそもたらしたものの、心の充足感は与えてくれなかった。日々のコーディング作業は、かつて抱いていた技術への情熱を徐々に奪っていった。そして今や、ただのルーチンワークと化していた。
家庭も、彼にとっては安らぎの場所ではなくなっていた。妻の美智子は大手銀行でキャリアを積み、その年収は雅弘をはるかに上回っていた。彼女の自信に満ちた態度は、結婚当初に持っていた夫への敬愛の念を、いつしか軽蔑の色に変えていった。
思春期を迎えた娘のあかりは、父親である雅弘に対して露骨な嫌悪感を示すようになっていた。息子の航平も、母親の影響を受けてか、父をないがしろにする態度を隠そうとしなかった。
雅弘は確かに、外見的には理想の夫だった。家事も育児も率先してこなし、妻の仕事を常に支援してきた。しかし、それが逆に仇となった。美智子の目には、そんな夫の姿が「男らしくない」と映るようになっていったのだ。
「こんなはずじゃなかったのに」
ラテを一口すすりながら、雅弘は画面に向かう手を止めた。しかし、すぐに首を振って意識を取り戻す。彼の前には、数ヶ月前から取り組んでいる株価予測システムのコードが広がっていた。人工知能、特に長期短期記憶(LSTM)を用いた時系列解析の研究は、彼にとって新たな希望の光となっていた。
誰にも話していないが、このシステムは既に小さな成果を上げ始めていた。開発は3つの段階を経ていた。最初は、株価の時系列データを単純なLSTMで処理するだけの基本的なモデルだった。その段階での的中率は55%程度。投資の世界では決して悪くない数字だが、雅弘の完璧主義は、その数字に満足することを許さなかった。
第二段階では、LSTMの層を複数重ねることで精度の向上を試みた。株価の動きには様々な周期性があり、短期・中期・長期のパターンが複雑に絡み合っている。それぞれの層に異なる時間スケールを認識させることで、予測の的中率は63%まで向上した。
しかし、真の転機は第三段階で訪れた。雅弘は金融工学の専門書を読み漁るうちに、マーケットには「恐怖」と「期待」という2つの感情が大きく作用していることに気づいた。株価データだけでなく、ソーシャルメディアの投稿内容や、ニュース記事のセンチメント分析を組み込んだのだ。
「感情を理解するAI」。その着想は、皮肉にも家庭での孤独が生んだものだった。人間関係での挫折が、逆説的に感情の機微を理解することの重要性を教えてくれたのかもしれない。
雅弘はコードを打ち込みながら、新たに追加した機能を確認していく。画面には複雑なニューラルネットワークの構造が図示されていた。LSTMの各層が処理する情報の流れ、感情分析エンジンからのフィードバック、最終的な予測値の算出過程—それらが見事に調和して動作している。
このシステムは既に実運用を始めていた。小額ながら実際の取引を行い、その結果を基にさらなる改良を重ねている。一日の利益は平均して1万円程度。決して大きな金額ではないが、着実に成果を上げ続けていた。
「理論上は、取引額を増やせば利益も比例して増えるはずだ」
雅弘は慎重に検証を続けていた。運用資金を増やす前に、もう少しシステムの安定性を確認したかった。プログラマーとしての経験が、急激な変更の危険性を教えていたのだ。
夕暮れが深まり、カフェの照明が徐々に明るさを増していく。帰宅の時間が近づいていた。雅弘はコードの最後の行を入力し、変更をコミットする。今日もまた、彼のAIは少しだけ賢くなった。
「明日は、ボラティリティ予測の部分も改良しよう」
MacBookを閉じながら、雅弘は明日への小さな期待を胸に秘めた。誰にも気づかれていないが、この静かな時間の中で、彼の人生を大きく変える何かが、確実に動き始めていた。
第2章:「密やかな解放」
人の気配のない早朝の街を、雅弘はいつもより軽やかな足取りで歩いていた。まだ薄暗い空には、夜明けを告げる淡い光が差し始めていた。この時間、彼は誰にも縛られない自由を感じることができた。
通勤途中の駅前の不動産屋の前で、雅弘の足が止まった。ショーウィンドウに貼られた一枚の広告が、彼の目を捉えたのだ。築30年の古い文化住宅、最寄り駅から徒歩12分、2DK、家賃5万円。一般的には見向きもされないような物件だったが、雅弘の心に強く響いた。
「誰にも邪魔されない、自分だけの場所」
その言葉が、まるで魔法のように彼の心を捉えた。会社帰りに不動産屋に立ち寄った雅弘は、その日のうちに契約を済ませていた。不動産屋の女性が怪訝な顔をしたのも当然だった。既婚者の中年男性が、突如として狭い部屋を借りようとするのだから。
しかし雅弘には、この決断に迷いはなかった。むしろ、長年の重圧から解放されるような清々しさを感じていた。
部屋は想像以上に良かった。古びた建物の2階、日当たりの良い角部屋。狭いながらも清潔で、必要最小限の家具を置くには十分なスペースがあった。
最初に購入したのは、シンプルな作業デスクと快適な椅子だった。続いて、コーヒーメーカーとマグカップ。そして小さな本棚。これだけで、彼の「秘密の研究室」は完成した。
雅弘は週末をこの部屋で過ごすようになった。表向きには「図書館で勉強する」という言い訳を使った。妻の美智子は、そんな夫の言い訳を聞くたびに、軽蔑的な目を向けるだけだった。
妻の美智子は、夫の変化に複雑な感情を抱いていた。表面上は軽蔑的な態度を見せながらも、どこか落ち着かない様子で夫の行動を観察していた。
「この歳になって何を勉強するっていうの?」
その言葉には、軽蔑の底に微かな不安が潜んでいた。週末になると外出する夫。しかし、その態度には怪しさがない。むしろ、以前より凛としているように見える。
美智子は夫の携帯をチェックしたことさえあった。浮気を疑ったわけではない。というより、雅弘にそんな色気があるとは思えなかった。ただ、何か変化が起きていることは確かだった。
その夜の夕食時、美智子は意地の悪い質問を投げかけた。
「休日はいつも勉強って言うけど、本当に何をしているの?」
「人工知能について研究しています」
雅弘の答えは実に自然で、動揺の色は微塵もない。むしろ、その落ち着きが美智子を苛立たせた。
「人工知能?あなたが?」笑みを浮かべながら、子供たちの方を見る。「お父さん、随分と物好きね」
あかりと航平も、母親に同調するように薄笑いを浮かべる。しかし、雅弘はその皮肉な笑いにも動じなかった。
「ええ、とても興味深い分野ですよ」
その落ち着いた返答に、美智子は妙な焦りを感じた。かつての雅弘なら、必ず言い訳めいた説明を始めたはずだ。その変化が、彼女の心に小さな亀裂を生んでいった。
夜、一人で寝室に向かう前、美智子は書斎で仕事をする雅弘の後ろ姿を見つめていた。パソコンに映る複雑な数式やグラフ。それらは彼女には理解できないものだった。
「本当に…何かが変わっているの?」
その問いに対する答えを見つけられないまま、美智子は寝室のドアを閉めた。彼女には気づけなかったが、その時既に、彼女の完璧な生活の均衡が、少しずつ崩れ始めていたのだ。
第3章:「転換点」
月末の給与明細を手にした時、雅弘は内心で笑みを浮かべていた。手取り50万円ほどのこの給与が生活の全てだと思い込んでいた頃が、もう遠い過去のように感じられた。
彼の秘密の口座には、既に2400万円が溜まっていた。AIシステムは予想以上の成果を上げ続け、一日の利益は平均して20万円に達していた。月にすると取引日数20日として400万円。システムの運用を始めてから半年が経ち、着実に資産を増やしていた。変動の激しい相場でも、システムは冷静に利益を積み重ねていく。
しかし、この成功に慢心することは許されなかった。雅弘は毎晩、システムの改良を重ねていた。新たに組み込んだボラティリティ予測エンジンは、市場の急激な変動を事前に察知し、リスクを最小限に抑える役割を果たしていた。
その夜、美智子が珍しく書斎に入ってきた。
「ねえ、あかりの大学のことなんだけど」
雅弘はパソコンの画面から目を離さずに答えた。「ああ、もうすぐ受験だね」
「私立だと学費が高額になるわ。あなたの給料だけじゃ難しいわね」
その言葉には明らかな皮肉が込められていた。美智子は自分の高収入を誇示するように続けた。
「私の収入で何とかなるけど、父親としてどう考えているの?」
雅弘は初めて画面から目を離し、妻を見つめた。「心配しなくていい。学費は私が出す」
「あなたが?」美智子は嘲笑うように言った。「どうやって?」
「方法は考えてある」
その穏やかな自信に、美智子は一瞬、言葉を失った。夫の態度に、見覚えのない強さを感じたのだ。
次の週末、雅弘は秘密の部屋で重要な決断を下していた。銀行口座の残高は、既に2400万円。年収の3倍を超える金額が、半年で得られたことになる。システムの安定性は実証済みで、これ以上の検証は必要ないと判断した。
パソコンの画面には、退職願のフォーマットが表示されていた。慎重に言葉を選びながら、雅弘は文面を完成させていく。二十年務めた会社を辞めることへの不安は、不思議なほど感じなかった。
「もう、誰かの期待に応える必要はない」
その言葉を心の中で繰り返しながら、雅弘は退職願を保存した。明日の朝、上司のデスクにこれを提出する。そして、新しい人生が始まる。
夕暮れ時、雅弘は部屋の窓から沈みゆく太陽を眺めていた。画面には、着実に増えていく資産残高が表示されている。これは単なる数字ではない。自由への切符だった。
携帯が震えた。美智子からのメッセージだ。
「今夜も遅くなるの?」
雅弘は返信しなかった。もう少しだけ、この静けさを味わっていたかった。近いうちに、全てが変わるのだから。
システムは相変わらず正確に動き続けている。暗号化された取引記録、利益の推移、リスク分析のグラフ。全てが完璧に制御されていた。
部屋の明かりを消す前、雅弘は窓から見える夜景をもう一度眺めた。明日から、彼の人生は大きく動き出す。その予感に、心が高鳴るのを感じていた。
第4章:「転機」
月曜の朝、雅弘はいつもより早く会社に到着した。机の上に置かれた退職願を見つめる上司の表情には、困惑と戸惑いが混ざっていた。
「突然ですが…理由を聞いても?」
「個人で事業を始めようと思います。AIによる資産運用システムの研究をしていまして」
上司は信じられないという表情を浮かべた。「君が起業?随分と意外だな」
その反応は想定内だった。会社の中で、雅弘は「無難だが特徴のない社員」として評価されていた。そんな男が突然、独立を言い出すのだ。
昼休みまでには、部署内に雅弘の退職の噂が広がっていた。反応は様々だった。
「中村さんが?まさか」営業部の田中が声を潜めて言う。「あの消極的な中村が独立?」
「AIって…正直、似合わないよね」経理の山田は苦笑いを浮かべていた。
若手社員たちの間では、別の反応もあった。
「実は凄いことを考えてたんじゃない?」
「地味な人ほど、実は深く考えてるってことあるよね」
ベテランたちは心配そうな目で雅弘を見ていた。「家族もいるのに、随分と無謀な…」
しかし、雅弘はそれらの反応に一切動じる様子はなかった。むしろ、いつもより落ち着いているように見えた。
その日の午後、思いがけない呼び出しがあった。
「城山専務が会いたいそうです」
会議室に入ると、専務の城山誠が穏やかな表情で待っていた。
「君の退職願のことは聞いた。AIシステムの話も」城山は真剣な眼差しで雅弘を見つめた。「具体的な内容を聞かせてもらえないか」
雅弘は慎重に言葉を選びながら、自身のシステムについて説明した。取引の自動化、リスク管理、市場分析の手法について。そして、これまでの運用実績について。
城山の目が輝きを増していく。
「実は、ちょうど良いタイミングだった」城山は微笑んだ。「当社でも、AIを活用した新規事業の立ち上げを計画している。しかし、適切な人材が見つからなかった」
雅弘は息を呑んだ。
「君のような人材を探していたんだ。新プロジェクトのマネージャーとして、手腕を振るってもらえないか」
その言葉に、雅弘は一瞬、戸惑いを覚えた。しかし、城山の次の言葉が彼の心を動かした。
「もちろん、給与も大幅に改善する。何より、君のシステムを会社のインフラとして活用できる可能性を探りたい」
帰宅後、雅弘はこの展開を美智子に伝えた。
「専務直轄の新プロジェクトを任されることになりました」
美智子は明らかな安堵の表情を見せた。「良かった…正気に戻ったのね」
その言葉に、雅弘は何も答えなかった。妻には、この展開が新たな始まりに過ぎないことが理解できていないようだった。
書斎で、雅弘は今日の出来事を振り返っていた。予想外の展開だったが、むしろチャンスかもしれない。個人での運用に限界を感じ始めていた矢先のことだった。
窓の外では、春の嵐が近づいていた。それは、雅弘の人生に訪れようとしている激動の予兆のようでもあった。
彼にはまだ知る由もなかったが、この決断が、彼の人生を大きく変えることになる。そして、その変化は彼の家族にも、予想もしない影響を及ぼすことになるのだ。
第5章:「心の隙間」
美智子は、夫の変化に戸惑いを感じていた。確かに雅弘の収入は増えたものの、まだ自分の年収には及ばない。銀行のエリート職員として、美智子は順調にキャリアを重ねてきた。しかし最近は、夫の態度に違和感を覚えていた。
「また遅くなるの?」LINEの既読すら付かない。
そんなある日、支店長の榊原からメールが届いた。彼は美智子の実力を評価する数少ない上司の一人だった。
「今度の人事異動の件で、少しお話があります」
昼休み、支店近くの高級レストランで榊原と向き合う。45歳の榊原は、端正な顔立ちと洗練された物腰で、支店内でも一目置かれる存在だった。支店長の彼は、いつも適度な距離を保ちながら、さりげなく彼女の心を掴んでいく術を心得ていた。40代後半でありながら、その端正な顔立ちと洗練された物腰で、榊原は支店内の女性社員たちの憧れの的だった。特に既婚女性たちへの気遣いは絶妙で、誰もが彼との会話に心躍らせていた。
「中村さん、本部の融資管理部門の責任者として、是非あなたに来ていただきたい」
高級レストランで榊原は真摯な表情で語りかけた。グラスに注がれた赤ワインが、照明に照らされて妖しく輝いている。
「でも、私には家庭が…」
「ご主人との関係は、最近どうですか?」
榊原の声は、優しく響いた。
「夫は…」美智子は言葉を選びながら答えた。「最近は自分のAIの研究に没頭していて」
「そうですか」榊原は深いため息をつきながら続けた。「実は私も、妻との関係に悩んでいて…」
その瞬間から、二人の会話は深みを増していった。榊原は巧みに自身の不幸な結婚生活を語り、時に涙を見せることさえあった。美智子は、初めて出会う「情熱的な男性」に、心を奪われていった。
それ以降、二人の会話は仕事の枠を超えていった。互いの家庭の悩み、将来への不安。共感できる話題が次々と見つかった。
「また、お話できますか?」別れ際、榊原がそっと囁いた。
次第に、二人の逢瀬は定期的なものとなっていった。高級レストラン、静かなバー、時には近郊のホテルのラウンジ。
「私ね、離婚を考えているんです」
ある日、榊原は告白した。
「子供たちも大きくなったし…これから本当の人生を見つけたいんです」
美智子の胸は高鳴った。20年近く、淡々と過ごしてきた結婚生活。雅弘との関係は、まるで事務的な共同生活のようだった。しかし榊原は違った。彼は情熱的で、美智子の一挙手一投足に関心を示し、その言葉の一つ一つに深い共感を示した。
「私たち、新しい人生を始められるかもしれない」
榊原の囁きは、美智子の理性の壁を次々と崩していった。
週末の軽井沢行きを誘われた時、美智子は躊躇なく承諾していた。高級旅館での逢瀬は、彼女の人生で最も情熱的な時間となった。
美智子は知らなかった。榊原の机の引き出しには、他の支店の既婚女性たちとの写真が隠されていることを。彼の「離婚話」が、巧みに織り交ぜられた嘘であることを。そして、支店内では「榊原の次のターゲット」と噂されていることも。
家では、雅弘は相変わらずパソコンに向かっていた。株価の変動グラフを睨みながら、新しいAIシステムの開発に没頭している。妻の様子が変わったことにも、まったく気付いていなかった。たまに交わす会話も、AIシステムの話題ばかり。その姿が、急に遠く感じられた。その頃、雅弘は新プロジェクトで大きな成果を上げつつあった。しかし、妻の心が自分から離れていっていることには、まったく気付いていなかった。
「私、このまま一生を過ごすの?」
美智子は決意を固めていた。榊原との新しい人生。それは、彼女にとって最後の恋であった。
そして、春の嵐は確実に訪れようとしていた。榊原の巧みな策略は、着実に実を結びつつあった。
春の嵐は、確実に夫婦の関係を蝕んでいた。
第6章:「別れ」
秋の終わりのある夜、美智子は決意を固めて雅弘を待っていた。リビングのテーブルの上には、離婚についての資料が置かれている。
「話があるの」
パソコンに向かっていた雅弘は、静かに椅子を回転させた。
「私たち、もう終わりにしましょう」
美智子の声は、予想以上に冷静に響いた。
雅弘は黙ってうなずいた。その反応は、美智子の予想をはるかに超えていた。怒りも、悲しみも、慰留の言葉も―何もなかった。
「家と子供たちの親権は、私に譲ってほしい」
美智子は用意した書類を差し出した。
「わかった」
雅弘は書類に目を通すと、すぐにペンを取った。
「転居は来週末には済ませる。既に物件は押さえてある」
美智子は戸惑いを覚えた。この展開は想定していなかった。準備していた言葉―雅弘への非難も、自分の新しい人生の説明も、すべて不要になった。
「子供たちには、私から説明する」
雅弘は淡々と続けた。「あかりは大学生だし、航平も高校生だ。きちんと話せば理解してくれるはずだ」
週末、雅弘は必要最小限の荷物だけを車に積んだ。本棚の技術書、愛用のパソコン、そして数着の服。以前から借りていた古いアパートへの引っ越しは、驚くほどあっさりと終わった。
「新しい住所はメールで送る」
それだけ言って、雅弘は出ていった。
玄関に立ち尽くす美智子の背後で、高校二年生の航平が呟いた。
「母さん、本当にいいの?」
「ええ」
美智子は答えたが、胸の奥で何かが引っかかっていた。
雅弘が去った後、リビングの書斎だった場所が妙に広く感じられた。パソコンの置かれていた机も、本棚も、すべて跡形もなく消えていた。まるで、二十年の結婚生活が幻だったかのように。
その夜、美智子は榊原に電話をした。
「終わったわ」
「そう」
榊原の声は、どこか上ずっていた。
「じゃあ、また…」
「ええ」
美智子は答えたが、どこか虚しさを感じていた。
一方、雅弘は古いアパートの一室で、システムの画面に向かっていた。狭い六畳の部屋に、パソコンとモニター、本棚があるだけの簡素な暮らし。画面には、株価の変動グラフと、AIの分析結果が表示されている。その横には、会社の新プロジェクトの資料が積み上げられていた。
「これでいい」
独り言を呟きながら、雅弘は作業を続けた。表情には、不思議な解放感が漂っていた。物質的な豊かさや住環境など、彼の関心の外にあった。ただ、目の前の研究だけが、彼にとっての現実だった。
それは、誰もが予想しなかった別れ方だった。しかし、これが新しい人生の始まりだということを、二人はまだ知らなかった。美智子は自分の選択の代償を、雅弘は思いがけない幸運を、これから知ることになる。
次の週末、雅弘は城山専務から思いがけない電話を受けることになる。それは、彼の人生を大きく変えることになる提案だった。
第7章:「代償」
榊原は美智子からの電話を切ると、にやりと笑った。机の引き出しから高級シガーを取り出し、火をつける。窓の外では、東京の夜景が煌めいていた。
「上手くいったな」
独り言を呟きながら、彼は新しいターゲットのファイルを開いた。別の支店の女性部長、既婚、42歳。いつもの手順だった。
その頃、美智子は榊原との新生活を夢見ていた。高級マンションでの優雅な朝食、休日のドライブ、海外旅行―。しかし、現実は彼女の期待とは大きく異なっていった。
「今週末は、ちょっと予定が…」
「来週は東京本部での会議が…」
「その件は少し待ってもらえないかな…」
榊原からの連絡は、日を追うごとに疎らになっていった。
ある日、美智子は銀行の女性トイレで、偶然に会話を耳にした。
「榊原さん、また新しい人見つけたみたいよ」
「あの人、去年も○○支店で同じことしてたって…」
「可哀想に、皆、本気にしちゃうのよね」
美智子の頭から血が引いていく。足元がふらつき、個室の壁に寄りかかった。
その夜、彼女は銀行のデータベースにアクセスした。そこには、榊原の過去の異動履歴があった。各支店での在任期間はおよそ2年。そして不思議なことに、彼の異動の後には必ず、女性行員の退職や転勤が続いていた。
真実を確かめようと、美智子は前任地の支店に電話をした。そこで聞いた話は、すべて同じパターンだった。既婚女性への接近、偽りの離婚話、そして突然の心変わり。
「私、なんてバカなことを…」
自宅に帰ると、あかりからのメッセージが届いていた。
「お母さん、最近様子がおかしいよ。航平も心配してる」
台所のテーブルには、子供たちの写真が置かれていた。高校の制服姿の航平、大学の入学式での晴れやかなあかりの笑顔。そして、もう一枚。結婚式当日の、若かりし日の雅弘との写真。
美智子は崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。離婚から一ヶ月。取り返しのつかない過ちを犯してしまったことを、今更ながら思い知らされていた。
一方、雅弘の古いアパートでは、意外な出来事が起きていた。
「中村君」
城山専務からの突然の電話だった。
「最近の君の仕事ぶりを見ていてね。AIシステムの開発チームのリーダーとして、素晴らしい成果を上げているじゃないか」
雅弘は黙って相槌を打った。
「実はね」城山専務の声が親密さを増す。「来週の土曜日、うちの娘・麻衣子を連れて食事に行くんだが、君も一緒にどうかね」
雅弘は一瞬、目を閉じた。城山専務は次期社長の最有力候補だった。その娘との話は、明らかに政略結婚の匂いがした。
「麻衣子も、君のような優秀な方と知り合いたいと言っていてね」専務の声には、計算された温かみがあった。「これからの会社を担っていく若い世代には、私も期待しているんだよ」
その言葉の裏には、明確な意図が透けて見えた。雅弘を自身の懐に入れ、右腕として会社を支配していく。それが城山専務の描く構図だった。
「検討させていただきます」
雅弘は事務的に返答した。
電話を切った後、彼は窓の外を見つめた。雨上がりの夜空に、かすかな星が瞬いている。
その時、美智子からメールが届いた。
「雅弘さん、話があります。明日、時間をもらえませんか。私たち、もう一度やり直せないでしょうか」
雅弘は無表情のまま、メールを見つめた。画面の向こうで、美智子の焦りと後悔が透けて見えた。しかし彼の心には、もう以前のような温もりは残っていなかった。
そして翌日。城山専務の娘・麻衣子との顔合わせを、雅弘は受けることに決めていた。
第8章:「新たな春」
高級フレンチレストランのテーブルで、麻衣子は密かに雅弘の横顔を観察していた。45歳。同世代の男性たちと違い、無駄な愛想を振りまくこともなく、確かな存在感を漂わせている。
「中村さんのお話、とても興味深いです」
麻衣子は真摯な表情で語りかけた。
「AIの未来について、もっと詳しく聞かせていただけませんか?」
城山専務は、娘と雅弘のやり取りを満足げに見守っていた。
雅弘が席を外した時、麻衣子は父に向かって言った。
「素敵な方ね。でも…」彼女は少し躊躇った。「もう少しお洒落になってもらえたら」
専務は微笑んだ。
「それは私から提案してみよう。会社の重要な人材だからね」
翌週、麻衣子は銀座の高級テーラーに雅弘を連れて行った。
「これはお父様からの、プロジェクトリーダーへの投資です」
彼女は巧みに言い繕った。
オーダーメイドのスーツ、イタリア製の革靴、そして高級車のリース。次々と雅弘の外見が磨かれていく。麻衣子は時に厳しく、時に優しく、彼を理想の男性へと造り変えていった。
「ネクタイの結び方、違いますよ」
「この香水の方が素敵だと思います」
「週末は美術館に行きませんか?」
雅弘は、この27歳の女性の熱心さに、少しずつ心を開いていった。研究一筋だった日々に、新しい色が加わっていく。
「君は不思議な人だね」
ある夜、雅弘は静かに言った。
「僕のような者に、なぜそこまで」
麻衣子は真剣な眼差しで答えた。
「私、同年代の人たちに失望していたの。みんな、SNSの見せかけの自分に必死で」
彼女は続けた。
「でも中村さんは違う。本物の知性と、揺るぎない芯を持っている」
その言葉を口にする時、麻衣子の瞳には確かな輝きがあった。演技ではない。しかし同時に、この場面こそが最も効果的だと知っていた自分もいる。幼い頃から、父の商談に同席させられ、相手の機嫌を取る術を自然と身につけてきた。
レストランでは、必ず相手の専門分野に興味を示す。話題は確実に相手の関心事から切り出す。だが、AIについて学んだ知識は、決して演技ではなかった。雅弘への関心が、彼女を本気で勉強させていた。
「中村さん、この美術展のチケット、父から頂いたんです」
さも偶然のように告げる時も、実は前日に父にねだっていた。
「ご一緒できたら」
少し俯く仕草も、計算の内か、本心か。もはや彼女自身にも区別がつかない。
雅弘の好みを探り、少しずつファッションを提案する。高級ブランドには決して一度では連れて行かない。まず、比較的手頃な店で様子を見る。抵抗を感じさせれば、次回に持ち越す。父から学んだ商談の極意そのままに。
けれど、雅弘の横顔を見つめる時の胸の高鳴りは、紛れもなく本物だった。着替えたスーツ姿を褒める時の笑顔も、心からの喜びに溢れている。
麻衣子は気づいていた。かつての自分なら、こんな中年の技術者になど目もくれなかったはずだ。父の意向とはいえ、最初は単なる役目のつもりだった。いつからだろう。計算と本心が溶け合い、純粋な恋心へと変わっていったのは。
「今日のネクタイ、素敵です」
何気ない言葉を投げかける。表情は自然な明るさを保ちながら、その言葉が相手の自信を育むことも、ちゃんと理解している。
城山専務は、その進展を高く評価していた。
「麻衣子、良い仕事をしているよ」
愛娘の手腕を褒めながら、専務は次期社長の座を確実にする布石を打っていた。
だが、娘の表情に浮かぶ幸せそうな微笑みが、単なる演技でないことには気づいていなかった。
春の陽光は、すべてを照らし出していた。
変わりゆく雅弘。
麻衣子の計算と純真さが織りなす真実の恋。
そして、城山専務の描く巧妙な戦略を。
しかし誰も、この穏やかな春の日々が、まもなく大きく揺れ動くことを予期してはいなかった。
第9章:「秋風」
銀行の応接室に、怒号が響き渡った。
「あの女を、ただちに首にしていただきたいわ!」
榊原の妻・典子が詰め寄る。手には分厚い封筒が握られていた。
半年前から探偵事務所に依頼していた調査の報告書が、ようやく届いたのだった。探偵によれば、証拠写真の収集に時間がかかったという言い訳だったが、実際は事務所の怠慢で放置されていたのだ。
「遅すぎるとは思いましたけど」典子は冷笑を浮かべた。「でも、これで証拠は揃いました」
常務の机上に投げ出された写真には、数ヶ月前の日付。榊原と美智子が高級ホテルに入る姿が写っていた。すでに二人の関係は終わっていたが、それは典子にとってどうでもいいことだった。
「榊原家の面子に関わる問題です。このまま放置するわけにはいきません」
典子の声には、家柄の重みが滲んでいた。榊原家は、銀行の大口顧客でもある複数の企業と姻戚関係にあった。
常務は深いため息をつく。
「お気持ちはよく分かります。ですが…」
人事部長が慎重に言葉を選んだ。
「個人的な理由での解雇は、現代では様々な問題を引き起こす可能性があります。SNSでの拡散や、不当解雇の訴訟リスクも」
「では、このまま見過ごすと?」
典子の声が一段と鋭く響く。
常務と人事部長が視線を交わす。
「中村美智子については、すでに人事評価で課題が指摘されております」
人事部長が書類を取り出した。
「営業成績の低下、そして…」
実際にはない評価を、この場で作り上げていく。降格と配置転換。それが、最も穏当な落としどころだった。
翌日、美智子は人事部に呼び出された。
「石川支店への異動を命じます」
冷たい声が告げる。
「来週月曜日付けです」
美智子は、その瞬間を予感していた。華やかな東京から地方へ。それは事実上の左遷を意味していた。
「はい」
彼女は静かに頷いた。これが自分の選択の代償なのだと。
その夜、榊原からの着信は、まったくなかった。
翌朝の新聞の経済面に、大きな記事が載った。
『榊原商事、米国展開を加速 代表取締役会長の榊原誠一氏は「息子の英二を中心に、新規事業部門のグローバル化を推進する」と語る』
美智子は記事を読みながら、苦く笑った。榊原英二―彼女の元恋人は、父親の後押しで、グループ全体の海外戦略責任者として栄転したのだ。
しかも記事の写真には、満面の笑みを浮かべる英二の隣で、典子が上品な微笑みを浮かべていた。
「お似合いのご夫婦」
美智子は呟いた。この写真を見る限り、誰も二人の間に亀裂が入っていたとは想像もできないだろう。
アパートの荷物をまとめながら、これで終わりなのだと悟った。
しかし、彼女はまだ知らなかった。
この左遷が、思いもよらない展開をもたらすことになるとは。
その頃、雅弘と麻衣子は、銀座のレストランで週末の予定を立てていた。
二人の前には、まだ見ぬ嵐が、静かに忍び寄っていた。
第10章:「邂逅」
銀座のレストラン「ル・シエル」の個室で、美智子の送別会が始まった。
「石川支店とは、さみしくなりますね」
「でも、きっと良い経験になりますよ」
同僚たちの励ましの言葉に、美智子は静かに頷いていた。
美智子の母の啓子は、娘の表情を心配そうに見つめている。大学生の娘・あかりは何かを言いたげな表情を浮かべ、高校生の息子・航平は黙々と食事を続けていた。美智子の弟の健一は、姉の突然の異動に不審を抱いているようだった。別室では、雅弘と麻衣子がディナーを楽しんでいた。
「このワイン、素敵ですね」
麻衣子の声が優雅に響く。
午後8時。送別会が終わり、美智子たちがエレベーターホールに向かう。
その時だった。
「美智子さん」
振り返ると、見知らぬ紳士が立っていた。深いネイビーのイタリアンスーツに身を包み、洗練された雰囲気を漂わせている。横には、まるでファッション誌から抜け出してきたような若い女性。
「あの…どちら様…」
美智子が戸惑う。
「中村です。雅弘です」
母の啓子が息を呑んだ。
「まさひろ君…?」
弟の健一は目を見開いた。
「え?うそだろ…」
昔から無精ひげを生やし、地味な既製服を着ていた雅弘の面影はなかった。整えられた髪型、高級な革靴、そして何より、その佇まいの違い。
「初めまして」
麻衣子が優雅に会釈する。
「城山麻衣子と申します」
「城山…」
健一が呟く。
「あの大会社の社長のお嬢様…?」
気まずい沈黙が流れる。
「お母さん」
あかりが母の袖を引く。
「パパ、全然違う人になってる…」
航平は俯いたまま、拳を固く握りしめていた。離婚後、母子家庭で必死に働く母を見てきた。塾に行きたくても我慢した日々。そんな記憶が蘇る。
美智子は、夫と別れてから自分は必死で這い上がろうとしていた。しかし皮肉なことに、這い上がっていたのは雅弘の方だった。
「では、失礼します」
美智子が深々と頭を下げる。
「石川に赴任することになりまして」
「石川…」
雅弘の表情が曇る。
エレベーターに向かう美智子の背中を、家族が追いかける。
「信じられない」
健一が吐き捨てるように言う。
「あんな人が、どうして…」
啓子は黙って娘の肩を抱いた。あかりは母の手を握り、航平は耳まで真っ赤になって、足早に歩を進めた。
人生とは、なんと皮肉な物語を紡ぐのだろう。
美智子は、将来性のない夫を見限って出て行った。
そして今、彼女は地方に左遷され、元夫は大企業の令嬢を伴って輝いている。
エレベーターのドアが閉まる直前、美智子は振り返った。
そこには、かつての夫が、今や自分には手の届かない世界の住人として、麻衣子と優雅に立っていた。
銀座の夜景が、すべてを冷ややかに照らしていた。
上り坂を行く者と、下り坂を行く者と。
そして、それぞれの選択が導いた、予期せぬ結末を。