AI小説「サレンダー(Claude版)」

サレンダー,

松田卓也+Claude Opus 5

はじめに

セリーヌ・ディオンの歌に”I Surrender”というのがあります。 “surrender” は「降参する」というより「(愛に)身を委ねる、防御を解く」という意味合いで、恋する人が相手と共にいるためにすべてを差し出す、という内容の壮大なオーケストラ調ラブソングです。セリーヌ・ディオンにしか出せないような高音域の続く、激しい、力強いバラードです。その歌詞を読んで、この女性はどうしてここまでの激情を吐露できるのかと思い、どんな事情があるのだろうかと興味を持ちました。そこでChatGPTとClaudeにそれぞれ聞いて、事情を推測してもらいました。そしてそれを元に短編恋愛小説を書いてもらいました。二人の競作です。どちらのプロット、文体を好まれますか?今回はClaude版です。
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一 名簿

会議室の窓が結露していた。外は雨で、駐車場の白線が滲んで見える。
事業課の定例は毎週火曜の午後一時からで、澪(みお)はいつも同じ席に座る。窓を背にした端の席だ。ここなら誰の顔も一度に見える。
「来年度の招聘候補、一次案が出ました」
課長の桑田が資料を配る。A4が二枚。ホチキスの角が指に触れた。
澪は一枚目を受け取り、二枚目を隣の若杉に回した。目は自然に紙の上を滑っていく。クラシック枠、五組。邦楽枠、三組。ポピュラー枠、四組。
三行目で止まった。
チェロ 榊 冬子(さかき ふゆこ、在ベルリン) 帰国公演ツアーの一環
紙が音を立てなかったのが不思議だった。手は動いていない。指も震えていない。ただ、部屋の音がすうっと遠のいた。桑田の声が水の底から聞こえる。
「クラシックはこの二番目と三番目で迷ってましてね。榊さんのほうは代理店から先方の希望として上がってきたものです。地方の中規模ホールを回りたいと」
若杉が身を乗り出した。
「知らない名前ですね。有名な人ですか」
「向こうでは名前が通ってるらしいんですが、日本ではほとんど活動してないそうです。ええと、経歴が……国内の音大を出て、二十代半ばで渡欧」
桑田が資料をめくる。
「五十嵐さん、音大ご出身でしたよね。ご存じですか」
澪は顔を上げた。
「存じません」
声が普通に出た。
それが恐ろしかった。二十二年間、一度も口にしなかった名前を耳で受けて、喉が何ごともなく普通の音を出した。自分の身体が自分を裏切らなかったことに、澪は打ちのめされていた。
「そうですか。まあ、集客は読めませんね。チェロの独奏は動員が厳しい」
「弦は伸びません」と若杉が言った。「去年のヴァイオリンも六割でしたし」
「六割なら上等でしょう」
笑いが起きた。澪も笑った。
資料の三行目から目を離さないまま笑った。
その晩、澪は流しの前で手を止めていた。
湯が指の間を流れている。皿はもう洗い終わっていて、泡は排水口に消えていた。それでも水を止めなかった。
「おい」
夫の克彦が背後から言った。
「熱でもあるのか」
澪は蛇口をひねった。急に静かになった。
「どうして」
「五分くらいそうしてた」
「考えごと」
「仕事か」
「うん」
克彦は冷蔵庫を開け、麦茶のポットを出した。コップに注ぐ音がする。
「無理するな。おまえ、係長になってから帰りが遅い」
「そんなに遅くないでしょう」
「遅いよ」
克彦は麦茶を飲み干して、コップを流しに置いた。それから思い出したように言った。
「千夏から電話あったか」
「ない」
「金だな」
「たぶん」
「来たら俺に回せ。おまえが甘いから毎回向こうの言い値になる」
澪は布巾でコップを拭いた。ガラスが鳴った。
「あなたのほうが甘いと思うけど」
「そんなことはない」
克彦は笑って居間に戻っていった。テレビの音が大きくなる。野球だった。
澪は拭き終わったコップを棚に伏せた。手のひらに、まだ会議室の紙の感触が残っている気がした。

二 楽屋

下見は九月の第二週だった。
代理店の担当と、榊冬子と、二人でやってきた。案内は事業課の係長がする決まりになっている。つまり澪がする。
通用口の自動ドアが開いて、澪は誰よりも先に相手の輪郭を認めた。
背が高くなったわけではない。ただ肩の線が変わっていた。二十二年前は少し前のめりの、いつも何かを抱えているような立ち方をしていた。いまはまっすぐ立っている。髪はほとんど白く、短い。黒いシャツに黒い上着。
「本日はよろしくお願いいたします」
代理店の男が名刺を出した。榊冬子も出した。
「榊です」
澪は名刺を受け取り、自分のを渡した。
「事業課の五十嵐でございます」
榊の指が名刺の縁を持った。目が一度だけ落ちて、また上がった。
「五十嵐さん」
「はい」
それだけだった。
代理店の男が搬入路の幅を尋ね、澪が答えた。トラックは四トンまで。それ以上は正面の車寄せから台車で。エレベーターは楽屋口の脇に一基。
三人でホールに入った。客席の照明が落ちていて、舞台だけに作業灯がついている。榊は通路の途中で立ち止まり、天井を見上げた。
「残響、どのくらいですか」
「空席時で一・八秒です」と澪は言った。「満席で一・五を切ります」
「木ですね」
「壁は栓です。天井は反射板の角度を三段階で変えられます」
「変えたことは」
「ほとんどありません」
榊は口の端だけで笑った。
「どこもそうですよ。作ったときに一度動かして、それきり」
舞台に上がり、榊は中央より少し下手に立った。手を打った。乾いた音が返ってきて、すぐに消えた。
「いいホールです」
「ありがとうございます」
「褒めたのは設計した人ですけどね」
代理店の男が笑った。澪も笑った。
楽屋は舞台袖から短い廊下を抜けた先にある。三つあるうちの一番奥が、ソリスト用の個室だ。
案内を終えて、代理店の男が「ちょっと電話を」と廊下に出ていった。ドアが閉まった。
二人だけになった。
榊は鏡の前の椅子を引いて、座らずに背もたれに手を置いた。
「鏡、暖色ですね」
「二年前に替えました。前のは白すぎて、演奏者から評判が悪くて」
「いい判断です」
沈黙が落ちた。長くはない。三秒か、四秒。
榊が言った。
「二年前に、連れ合いを亡くしましてね」
澪は自分の指先を見た。
「そうですか」
「膵臓でした。見つかったときにはもう」
榊の声は事務的だった。搬入路の幅を尋ねたときと同じ調子だった。
「ベルリンの外れに住んでたんです。彼女がずっと譲らなくて、街中に出たがらなかった。私は不便で仕方なかったんですが、いま思うと正しかった。ああいうときに、静かな場所というのは」
澪は顔を上げられなかった。
この人は、いま、初めて会った市民会館の職員に向かって、女性の連れ合いのことを、天気の話のように話している。声を落としもしない。ドアの向こうには代理店の男がいる。廊下は音が通る。
澪の背中に汗が出ていた。
「……大変でしたね」
やっとそれだけ言った。
「大変でしたよ」と榊は言った。「でも大変なだけです。それ以上のことは何もない」
ドアが開いて代理店の男が戻ってきた。
「すみません、お待たせしました。それでは音響の打ち合わせを」
「はい」と澪は言った。声はまた、何ごともなく出た。
帰りは通用口まで送った。
代理店の男が車を回しに行き、榊と澪は庇の下に立った。雨は上がっていて、アスファルトが乾きかけていた。
「五十嵐さん」
「はい」
「本番の日も、あなたが担当ですか」
「そうなります」
「そうですか」
榊は空を見ていた。それから、まったく同じ調子で言った。
「靴、まだあの持ち方ですか」
澪は動けなかった。
車が来た。榊は「では」と言って助手席に乗った。窓は開かなかった。テールランプが坂を下って、市道に出て、見えなくなった。
澪は庇の下に立ったまま、しばらく動かなかった。
二十二年前のあの朝、廊下で音を立てないように、靴を両手に持って歩いたことを、なぜあの人が知っているのか。
起きていたのだ。
ずっと起きていて、見ていたのだ。

三 まっとうな生活

義母の通院は月に二度ある。第一と第三の木曜。
澪は年休を半日ずつ使う。克彦は「俺が行くよ」と言うが、支店長代理の平日昼を空けさせるわけにはいかない。それに義母は克彦が来ると気を張る。澪だと張らない。嫁のほうが楽なのだ。
「澪さん、こないだの薬ね、あれ効かないのよ」
待合室で義母が言った。
「先生に言いました?」
「言ったら、様子を見ましょうって」
「じゃあ様子を見ましょう」
「そういうことじゃないの」
義母は膝の上のハンカチを畳み直した。
「あなた、いつもそう。すぐ収めようとする」
澪は黙っていた。
「悪く言ってるんじゃないのよ。助かってるの。ほんとうに助かってる。ただね、たまには、あなたの言いたいことを聞きたいのよ。二十年もいて、私はあなたが何を嫌いなのか知らないの」
澪は少し笑った。
「嫌いなもの、ないんです」
「ほらそれ」
義母も笑った。
診察が終わり、薬局に寄り、義母をアパートまで送った。玄関で靴を脱がせて、上がり框に座らせて、コップに水を汲んだ。
帰りの車の中で、澪は信号待ちのたびに指をハンドルの上で動かしていた。
自分では気づいていなかった。
娘の千夏から電話が来たのは、その週の日曜だった。
「あのさ、ゼミの合宿があるんだけど」
「いくら」
「話が早すぎない?」
「早いほうがいいでしょ」
「三万八千」
「合宿で三万八千」
「宿泊費と交通費と、あと資料代」
澪は電卓を出さなかった。出さなくても分かる。四月からこれで五度目だ。
「お父さんに言った?」
「言ったら説教されるじゃん」
「説教されなさい」
「えー」
千夏が笑った。この笑い方は克彦に似ている。人に嫌われない笑い方だ。
「ねえお母さん」
「なに」
「お母さんって、大学のとき何やってたの」
澪はテレビの音が急に大きく聞こえた気がした。
「なんで」
「なんか、ゼミの子のお母さんが元ピアノの人でさ。今も教室やってるって。で、うちのお母さんも音大だよねって話になって、でも私、何も知らないなと思って」
「別に。普通に通ってただけ」
「ピアノ?」
「そう」
「うまかったの」
澪は電話を耳から少し離した。それからまた当てた。
「普通」
「ふうん」
千夏はそれ以上訊かなかった。三万八千円の話に戻り、月末までに振り込むことで話がついた。
電話を切って、澪は居間に戻った。克彦が新聞を読んでいた。
「金か」
「三万八千」
「多いな」
「合宿だって」
「合宿ね」
克彦は新聞を畳んだ。
「まあ、行かせてやれ。俺たちのころは金がなくて行けなかった」
「あなた、合宿なんてあった?」
「ないよ。だから余計そう思う」
澪は湯呑みを片づけた。台所の窓から隣家の灯りが見えた。
この人は善良だ。これは二十二年間、一度も揺らいだことのない事実である。義母を大事にし、娘に甘く、部下に慕われ、澪に手を上げたこともなければ大声を出したこともない。
だから澪は、自分がこの人に対して犯している嘘の内容を、この二十二年、一度も自分に向かって説明したことがなかった。
その夜、澪は夢を見た。
夢の中で澪は廊下を歩いていた。靴は履いていない。両手に持っている。左手にローファーの片方、右手にもう片方。踵の部分を指で挟んで、底が体に当たらないように少し離して持っている。
廊下は練習棟の三階だった。窓の外は雪だった。
背後の部屋のドアは閉まっていた。
澪は振り返らなかった。夢の中でも振り返らなかった。
目が覚めたとき、隣で克彦が寝息を立てていた。時計は四時二十分だった。
澪は起き上がって、台所で水を飲んだ。
コップを持つ手が震えていた。二十二年間、一度も震えなかった手が、いま震えていた。

四 弾けない

本番は十一月十四日で、榊は三日前に入った。
地方公演は普通、前日入りである。三日前から入るソリストは珍しい。代理店の担当は「先方のご希望で」としか言わなかった。
ホールの調律は前々日に行う。ピアノ伴奏はつかない無伴奏のプログラムだが、後半にピアノ入りの小品が二曲あって、伴奏者は当日入りだった。だから調律師と榊と澪の三人で、二時間ほどを過ごすことになった。
調律師の坂西は口数の少ない男で、仕事を終えると鍵を澪に返して帰っていった。
午後四時。客席は暗い。舞台に作業灯。
榊はチェロを構えたまま音階を上がっていた。ゆっくりと、一音ずつ確かめるように。澪は袖のパイプ椅子に座り、記録用のノートを膝に置いていた。何も書いていなかった。
音が止まった。
「五十嵐さん」
「はい」
「そこの椅子、硬いでしょう」
「慣れています」
「客席に降りたらどうです。音は客席で聴くものです」
澪は立ち上がった。袖から舞台を横切って、下手の階段を降りた。最前列から三列目の、中央より少し左に座った。
榊が弾き始めた。
無伴奏組曲の、緩やかな楽章だった。曲名を澪は知っていた。二十二年前に、この人が学内の試験で弾いたのと同じ曲だった。
あのときは音が硬かった。指が回ることを示そうとしていた。いまはそうではない。音が、弾き手から離れて勝手に鳴っているように聞こえる。ホールの残響が一・八秒あることを、この人はもう完全に把握している。
澪は自分が泣いていることに、三小節ほど遅れて気づいた。
曲が終わった。
榊は弓を下ろし、しばらく動かなかった。それから言った。
「ピアノ、開けましょうか」
澪は答えなかった。
「調律したてです。今日いちばんいい状態ですよ」
「弾きません」
「弾けとは言っていない」
榊は立ち上がり、チェロを椅子に立てかけて、舞台の下手に置いてあるグランドピアノの覆いを外した。屋根の突き上げ棒を立てる。鍵盤蓋を開ける。手慣れていた。
「どうぞ」
澪は座席から動かなかった。
沈黙が長くなった。ホールの空調がかすかに鳴っている。
澪は立ち上がった。
階段を上がり、舞台を歩き、ピアノの前まで来た。椅子の高さを見る。坂西が調律のときに合わせた高さのままだ。少し低い。
澪は椅子を回して高さを上げた。二十二年ぶりの動作なのに、指が回転数を覚えていた。
座った。
鍵盤に手を置いた。
それだけだった。
置いたまま、一分が過ぎた。
指は健康だった。骨も腱も何ともない。仕事で毎日キーボードを叩いている。動かないはずがない。
動かなかった。
「五十嵐さん」
榊の声が近くでした。ピアノの向こう側、屋根の陰に立っている。
「まだ怖いんだ」
澪の肩が跳ねた。
「……何がですか」
榊は答えなかった。
「何が怖いって言うんですか」
澪の声が高くなった。ホールがそれを一・八秒かけて返してきた。自分の声が天井から降ってくるのを、澪は初めて他人の声のように聞いた。
榊は答えない。
答えないので、澪は自分で言うしかなかった。誰も言ってくれないから、自分の口が動くしかなかった。
「音楽じゃありません」
「そうでしょうね」
「ピアノが怖いんじゃない。私は」
言葉が止まった。
「私は」
止まった。
榊が屋根の陰から出てきた。ピアノの脇に立って、澪を見下ろした。
「二十二年前のあの朝、あなたは私から逃げたんじゃない」
「……」
「自分から逃げたんです。そのあとずっと逃げてる。だから弾けない」
澪は鍵盤の上の自分の手を見ていた。爪が短く切ってある。事務仕事の手だ。
「よくそんなことが言えますね」
「言えますよ」
「あなたは失うものがなかった」
「なかったと思いますか」
榊の声が初めて低くなった。
「私は二十四で家を出ました。父の葬式にも呼ばれなかった。母は死ぬまで、私のことを『まだ結婚していない娘』と人に説明していた。失わなかったんじゃない。全部失って、それでも生きていられると分かったんです」
澪は顔を上げた。
「私にはできません」
「でしょうね」
「娘がいます。夫がいます。義母がいます。職場があります。この町で二十二年、私は」
「知っています」
「知らないでしょう」
澪は立ち上がった。椅子が後ろに倒れて、大きな音がした。ホールがそれを返した。
「あなたは知らない。何も失わずに済む人の顔で、そこに立っていないでください」
榊は動かなかった。それから、静かに言った。
「じゃあ、なぜ椅子の高さを直したんですか」
澪は答えられなかった。
自分で回した。二十二年ぶりに、誰にも頼まれず、自分の背丈に合わせて上げた。
澪は倒れた椅子を起こして、丁寧に元の位置に戻し、鍵盤蓋を閉め、突き上げ棒を倒し、覆いをかけた。手順を一つも間違えなかった。
それから舞台を降りて、通用口から出た。
駐車場で車のドアに手をかけたところで、追いついてきた足音が止まった。
「五十嵐さん」
澪は振り返らなかった。
「明日も来ますか」
「仕事ですから」
「そうじゃなくて」
澪は振り返った。
外灯が一つだけ点いていて、その下で榊は立っていた。白い髪が光っていた。二十二年分の白だった。
澪は自分が何と答えるつもりなのか、口を開くまで分からなかった。
「……何時に」
それが答えだった。

五 狭い町

十一月の三日間は、澪の二十二年で最も短かった。
昼はリハーサル、夕方は打ち合わせ、夜は残務。誰にも説明のつく時間割の中に、説明のつかない時間が挟まっていた。挟まっているだけなのに、そこだけが色を持っていた。
二日目の夜、澪は帰宅が十時を回った。
「遅かったな」
「本番前だから」
「音楽会ひとつでそんなに大変か」
「大変よ」
克彦は笑った。それ以上何も訊かなかった。
澪は風呂に入りながら、自分が嘘をつくのがうまいことに気づいていた。二十二年間、練習していたのだ。何も起きていない二十二年のあいだ、ずっと。
異変は三日目の朝に来た。
事業課の島に入ると、若杉がパソコンから顔を上げて「おはようございます」と言った。それだけだ。それだけなのに、声の高さが半音下がっていた。
澪は席に着き、メールを開いた。
昼前、給湯室で若杉と一緒になった。
「五十嵐さん」
「なに」
「昨日の夜、ホールの鍵、開いてましたよね」
澪は湯呑みを洗う手を止めなかった。
「点検で入ってた。日誌に書いてある」
「あ、はい。いや、すみません。忘れ物を取りに来たら電気がついてたので」
「入ればよかったのに」
「いえ、その」
若杉が言葉を探した。探すという行為そのものが答えだった。
「……お邪魔かなと」
水を止めた。給湯室が静かになった。
「若杉くん」
「はい」
「言いたいことがあるなら言って」
若杉は下を向いた。二十七歳の、悪意のない、目のいい男だった。
「ないです」
「そう」
「本当に、ないです」
澪は湯呑みを拭いて、給湯室を出た。
廊下を歩きながら、背中が熱かった。
噂は速かった。
速いというより、形にならないまま広がる種類のものだった。もし相手が男だったなら、町は正しい言葉を持っていた。「五十嵐さんとこの奥さん、なんかあるらしいよ」で済む。人は言い慣れている。言い慣れているから、二週間で飽きる。
今回はそうならなかった。
人々は言葉を持っていなかった。だから語尾が濁った。
「ベルリンの、あの、女の人ね」
「ええ」
「五十嵐さん、ずいぶん熱心よね」
「音大がご一緒だったんですって」
「あら、そう」
「……そう」
その「そう」に、何かが入っていた。名前のつかない何かが入っていて、言った本人も自分が何を言ったのか分かっていない。分かっていないから訂正もできない。
澪はそれを、廊下で、駐車場で、コピー機の前で、半日のうちに三度聞いた。
その日の午後、澪は事業課の書庫にこもって、来年度の予算表を開いたまま三十分動かなかった。
考えていたのは榊のことではなかった。
義母の顔を考えていた。あのハンカチを畳み直す手つきを考えていた。二十年もいて私はあなたが何を嫌いなのか知らない、と言った声を考えていた。あの人が知ったら、あの人は何と言うだろう。怒るだろうか。怒ってくれるならまだいい。
千夏の顔を考えた。ゼミの合宿に行き、人に嫌われない笑い方をする娘。あの子が友達に、私の母は、と説明する場面を考えた。説明できる言葉が、あの子にもないのだ。
克彦の職場を考えた。信用金庫の支店長代理という肩書きは、この規模の町では十分に重い。あの人は取引先の社長たちに頭を下げて回る。その頭の下げ方が、明日から変わる。
それから澪は、もっと恐ろしいことに気づいた。
離婚しても消えない。
克彦と別れて、この町を出て、職場を辞めて、義母とも切れて、千夏とも距離を置いて、それで全部を捨てたとしても、なお残るものがある。
それは、澪が澪であるという事実だった。二十二年前の雪の夜に一度だけ確かめて、翌朝、靴を両手に持って廊下を歩くことで打ち消した事実。以来ずっと「若い頃の混乱」として引き出しの奥にしまってきた事実。
捨てるべきものは家庭ではなかった。
二十二年かけて自分に言い聞かせてきた説明のほうだった。
澪は予算表を閉じた。
閉じた音が、書庫の中で小さく響いた。

六 花束

十一月十四日は快晴だった。
朝から搬入、照明合わせ、伴奏者との音合わせ。昼過ぎにゲネプロ。三時に休憩。開場は六時半、開演は七時。
前売は六割五分だった。当日券が二十枚ほど出て、七割に届きそうだった。桑田は上機嫌だった。
「弦でこれは大したもんですよ」
「そうですね」
「五十嵐さんが頑張ったからだ」
澪は笑った。
五時五十分。
澪は楽屋前の廊下にいた。手にプログラムの束を持っていた。榊が個室から出てきて、廊下の真ん中で立ち止まった。
黒の演奏用の服に着替えていた。
「五十嵐さん」
「はい」
「終わったら、少し時間はありますか」
澪はプログラムの束を持ち直した。
「……あります」
榊はうなずいた。それ以上何も言わなかった。何も言わずに、ただ澪を見ていた。
二人のあいだには一メートル以上の距離があった。手も触れていない。声も落としていない。楽屋前の廊下で、公演前の関係者が交わす、何ら不自然でない会話だった。
廊下の角から克彦が現れたのは、そのときだった。
花束を持っていた。
紙で包んだ、ガーベラとかすみ草の、そう大きくない花束だった。駅前の花屋のものだと澪にはすぐ分かった。あの店は包み紙が独特なのだ。
克彦は立ち止まった。
三人が廊下にいた。
何も起きていなかった。誰も何もしていなかった。
克彦の顔から、表情が抜けた。
澪はそれを見た。二十二年、この人の顔をあらゆる角度から見てきた。怒った顔、笑った顔、酔った顔、義母の入院を知らされた顔。だが表情が「抜ける」のを見たのは初めてだった。何かが入れ替わったのではなく、そこにあったものが引いていった。
「……ああ」
克彦が言った。
「悪い。差し入れというか、その」
「どうしたの」
澪の声が、自分でも驚くほど平坦だった。
「いや、今日だろ、本番。近くまで来たから」
克彦は花束を持ち上げかけて、下ろした。
榊が一歩前に出た。
「榊と申します。本日は」
「五十嵐です」と克彦が言った。「家内が、お世話になっております」
二人は名乗り合い、礼をした。完璧に儀礼的だった。
「では、私はこれで」と榊が言い、楽屋に戻った。ドアが閉まった。
廊下に二人が残った。
ロビーはまだ開場前で、照明が半分しかついていなかった。
物販の準備をしている若杉が、二人を見て、また下を向いた。
澪と克彦は隅のベンチのそばに立った。座らなかった。
「花、ありがとう」
「うん」
克彦は花束を澪に差し出した。澪は受け取った。かすみ草がかさかさと鳴った。
沈黙が長かった。
「なあ」
「なに」
「あの人は、何なんだ」
澪は花束を見ていた。
「音大の同期」
「それは聞いた」
「うん」
「そうじゃなくて」
克彦が言葉を探した。
澪は待った。この人が探しているものが、この人の中には存在しないことを、澪は知っていた。この人の語彙に、いま起きていることを言い表す言葉はない。妻が男と、なら言える。二十二年連れ添えば、そういう疑いを持つ準備くらいはできている。だがこれは違う。違うということだけが分かって、何が違うのかが分からない。
「……何なんだ」
同じ言葉が二度出た。
「あの人は、何なんだ、おまえにとって」
澪は顔を上げた。
「うまく言えない」
「言えないのか」
「いま言えない」
「いつ言える」
澪は花束を持ち直した。
「今夜」
克彦は澪を見た。しばらく見ていた。それから、目をそらした。
「野球見て待ってるよ」
「うん」
「日本シリーズ、今日で決まる」
「そう」
「四勝三敗になる」
どちらのチームのことなのか、克彦は言わなかった。澪も訊かなかった。
克彦はロビーを横切って、正面玄関から出ていった。歩き方はいつもと同じだった。少し内股で、右肩が下がる。二十二年見てきた歩き方だった。
澪はその背中が自動ドアの向こうに消えるまで見ていた。
この人は最後まで分からない。誰に負けたのかも、何に負けたのかも分からないまま、家に帰って野球を見る。
それが澪には、いちばん耐えがたかった。
開演。
澪は下手の袖に立っていた。緞帳が上がり、榊が出ていき、拍手が起きた。
最初の音が出たとき、澪はプログラムの束を胸に抱えた。抱えていないと立っていられない気がした。
客席は七割だった。前から三列目の、中央より少し左の席は空いていた。
二時間のプログラムのあいだ、澪は一度も座らなかった。
後半の最後の曲が終わり、拍手が長く続き、アンコールが二曲あった。二曲目は無伴奏の短い曲で、榊は照明を半分落とすように事前に頼んでいた。澪が調光室に指示を出した。
暗くなったホールで、チェロの音が一・八秒の残響を引いた。
澪は袖で、自分の頬が濡れているのを手の甲で拭った。

七 残響

撤収が終わったのは十一時前だった。
代理店の男は先に宿へ戻り、榊は楽屋に残っていた。ケースはもう閉じてある。
澪はドアをノックして入った。
「お疲れさまでした」
「お疲れさま」
榊は鏡の前の椅子に座っていた。暖色の照明の下で、白い髪が金色に見えた。
「よかったです」
「客席で聴いてないでしょう」
「袖で聴きました」
「じゃあ半分しか聴いてない」
榊は笑った。それから真顔になった。
「明日の朝、大阪に出ます。そのあと福岡と、金沢と、それで日本は終わりです。十二月の頭にベルリンに帰る」
「そうですか」
「フランクフルト経由の便を取ってあります。十二月三日」
澪は黙っていた。
榊は続けなかった。
澪は待った。この人が何か言うのを待った。一緒に来い、でも、また会おう、でも、何でもいい。何か言ってくれれば、それに答えるか答えないかを決めればいい。決めるという行為だけをすればいい。
榊は何も言わなかった。
沈黙が二十秒ほど続いて、澪はようやく理解した。
この人は言わないのだ。
二十二年前も、この人は何も言わなかった。翌朝、澪が靴を持って出ていくのを、起きたまま見送った。呼び止めなかった。追いかけなかった。
言えば、澪はそれに答えるだけで済む。答えるというのは、選ばないということだ。人の言葉に応じるのは、自分で選んだことにはならない。
この人は二十二年前も今夜も、澪に自分で言わせようとしている。
「榊さん」
「はい」
「私、行きません」
榊は表情を変えなかった。
「そうですか」
「行かないけど」
澪は自分の声が震えているのを聞いた。
「逃げません」
榊が目を上げた。
「今夜、夫に全部話します。二十二年前のことも。この三日のことも。それから、私が、ずっと自分に嘘をついてきたことも」
「話して、どうなりますか」
「分かりません」
「壊れますよ」
「壊れるでしょうね」
澪は言った。
「でも私は、もう自分にだけは嘘をつきません」
榊はしばらく澪を見ていた。それから、椅子から立ち上がって、チェロのケースの取っ手を握った。
「五十嵐さん」
「はい」
「靴は履いて帰ってください」
澪は笑った。笑いながら涙が出た。
「はい」
榊は楽屋を出ていった。廊下を歩く音が遠ざかって、通用口のドアが閉まる音がした。
澪は誰もいない楽屋にひとりで立っていた。鏡に自分が映っていた。四十六歳の、疲れた顔の、髪に白いものの混じった女が映っていた。
澪は照明を落として、ホールの戸締まりをして、家に帰った。
その夜、居間の電気は点いていた。
克彦はテレビを消して、ソファに座っていた。テーブルの上に麦茶のポットがあって、コップが二つ置いてあった。
澪はコートを脱いで、向かいに座った。
「日本シリーズ、どうだった」
「決まった」
「そう」
克彦は麦茶をコップに注いだ。二つとも注いだ。
「話、あるんだろ」
「ある」
「長いか」
「長い」
克彦はうなずいた。
「じゃあ聞くよ」
澪は話しはじめた。
二十二年前の冬のことから話した。雪で練習棟が閉じた夜のこと。翌朝、靴を両手に持って廊下を歩いたこと。その年に演奏が崩れたこと。大学院に落ちたこと。帰郷して、見合いをして、あなたと結婚したこと。
克彦の顔を見ないで話した。途中で何度か止まった。止まるたびに克彦は何も言わずに待った。
全部話し終えたとき、時計は二時を回っていた。
克彦は長いこと黙っていた。
それから言った。
「一つ訊いていいか」
「うん」
「おまえ、俺と結婚したこと、後悔してたのか」
澪は初めて顔を上げた。
「してない」
「本当か」
「本当。それだけは本当」
克彦はうなずいた。何度もうなずいた。
「そうか」
そして、両手で顔を覆った。
澪はその背中を見ていた。手を伸ばさなかった。伸ばす資格がないと思った。
二人はその夜、それ以上何も話さなかった。
冬が来て、春が来た。
克彦はしばらく口をきかなかった。それから、少しずつ、事務的な話からきくようになった。義母の通院のこと。千夏の学費のこと。町内会の当番のこと。
二人は同じ家にいる。寝室は別になった。離婚の話は、まだ出ていない。出るかもしれないし、出ないかもしれない。それは澪にも分からない。
三月に、千夏が春休みで帰ってきた。母と父の空気が変わったことに気づいて、一度だけ「何かあった」と訊いた。澪は「あった」と答えた。千夏はそれ以上訊かなかった。訊かなかったが、帰る日にバス停で「またね」と言った声が、少しだけ大人になっていた。
義母には話していない。いつか話すのかもしれない。
榊からは一度だけ絵葉書が来た。ベルリンの、雪の積もった通りの写真だった。裏には日付と、演奏会の予定が二行だけ書いてあった。それだけだった。
澪はそれを、机の引き出しに入れた。奥ではなく、手前に入れた。
四月の日曜の午後、澪は納戸を片づけていた。
段ボールの奥から、古い楽譜の束が出てきた。表紙が茶色く変色していて、鉛筆の書き込みが残っていた。二十二年前の自分の字だった。
澪はそれを持って、居間に行った。
部屋の隅に、電子ピアノが置いてある。千夏が小学生のときに買って、三年でやめて、それきり布をかけてあるものだ。
澪は布を取った。埃が舞った。
電源を入れると、待機ランプが赤く点いた。二十年近く経つのに、まだ動いた。
澪は椅子を出して、高さを見た。低い。
回して上げた。
座って、楽譜を開いた。開いた頁は、二十二年前の冬に途中まで練習して、それきり閉じたところだった。
鍵盤に手を置いた。
弾いた。
ひどいものだった。指が回らない。左手が遅れる。四小節目で止まって、やり直して、また止まった。
二十二年分の錆が指の関節に詰まっていて、どこをどう動かせばいいのか身体が忘れていた。
それでも、澪は止めなかった。
同じ四小節を、十回繰り返した。二十回繰り返した。八回目にひとつ音が正しく鳴って、九回目にまた間違えた。
台所から克彦が出てきた。麦茶のポットを持っていた。
澪は手を止めなかった。
克彦は何も言わずに、澪の背中を見ていた。それからテーブルにコップを置く音がした。二つ置いた音だった。
澪は弾き続けた。
窓の外は明るくて、隣家の庭の木が芽を吹いていた。
音は下手だった。ホールの残響のような美しい尾は引かなかった。八畳の居間の壁に当たって、すぐに死んだ。
それでも、鳴っていた。
二十二年、鳴らさなかった音が、いま、鳴っていた。