夢一夜
松田卓也+Gemini 2.0 Pro (experimental)
第一章:衣の海、涙の紅
夕闇が迫る部屋に、焦燥の色が満ちていた。大林麻美は、乱雑に広げられた衣の海を前に、小さく息を吐いた。絹の滑らかな感触、紗の透けるような軽やかさ、絽の涼しげな風合い。色とりどりの着物たちが、まるで意思を持つかのように、彼女の選択を拒んでいる。
今夜は、玉田琢彌教授との逢瀬の日。京都の大学を卒業して二年、まさか恩師である彼とこのような関係になるなど、夢にも思わなかった。
麻美が玉田教授の講義を初めて受けたのは、大学二年の春だった。薄暗い大講義室、スクリーンに映し出される『源氏物語絵巻』の絢爛な世界。そして、その世界を解き明かす、玉田教授の静謐でありながら情熱を秘めた声。
「光源氏が、藤壺の宮に抱く思慕の念。それは、決して叶うことのない禁断の愛。しかし、だからこそ、その想いは、より一層強く、美しく燃え上がるのです」
教授の言葉は、まるで魔法のように麻美の心を捉えた。古文の授業は得意ではなかったが、彼の講義だけは、一言一句逃すまいと、必死に耳を傾けた。
いつしか、麻美の心に芽生えた淡い恋心。それは、尊敬と憧憬が入り混じった、複雑な感情だった。しかし、教授との間には、越えられない一線があることを、麻美は十分に理解していた。
卒業後、麻美は京都の出版社に就職した。仕事は忙しかったが、充実した日々を送っていた。しかし、心のどこかに、ぽっかりと空いた穴があるような気がしていた。
そんなある日、大学時代の友人との飲み会で、偶然、玉田教授と再会した。彼は、以前と変わらず穏やかな笑みを浮かべ、麻美に声をかけてきた。
「大林さん、お元気でしたか? 今でも、源氏物語はお好きですか?」
その言葉をきっかけに、二人の距離は急速に縮まった。何度か食事を重ねるうちに、麻美は、教授が妻を亡くし、一人暮らしをしていることを知った。そして、彼もまた、麻美に特別な感情を抱いていることに気づいた。
しかし、今夜の逢瀬は、これまでとは違う。互いの想いを確かめ合った、初めての夜になるのだ。
だからこそ、麻美は、着ていく服を選ぶことができない。どの着物も、今の自分の気持ちを表しているようで、同時に、何か違うような気がしてならない。
苛立ちに、思わず唇を噛む。ふと、手鏡に視線を落とすと、そこに映る自分の顔は、緊張と不安で強張っていた。
「私、ほんのり涙ぐむ……」
歌詞の一節が、不意に脳裏をよぎる。そう、これは、喜びだけではない。禁断の恋に足を踏み入れることへの、恐れと、後ろめたさ。そして、この恋が、決して長続きしないであろうことへの、予感。
麻美は、深い溜息をつき、もう一度、衣の海に手を伸ばした。
第二章:夢一夜、咲く花
タクシーを降りると、そこはひっそりとした路地の奥。古都の風情を色濃く残す、隠れ家のような料亭だった。暖簾をくぐり、玉砂利を踏みしめて奥へと進む。麻美の足取りは、期待と緊張でわずかに震えていた。
通されたのは、離れの個室。窓の外には、手入れの行き届いた日本庭園が広がり、灯籠の淡い光が、水面に揺らめいている。床の間には、紫式部の掛け軸。その視線は、優しく、そしてどこか憂いを帯びているように見えた。
「麻美さん」
低い声が、麻美の名を呼んだ。振り向くと、玉田教授が静かに微笑んでいる。彼は、いつもより少しくだけた、薄墨色の着物姿だった。
「…先生」
麻美は、小さく息を呑んだ。教授の姿を目にした瞬間、さっきまでの緊張が、ふっと解けていくのを感じた。
二人は、向かい合って座った。仲居が、手際よく料理を運んでくる。先付け、椀物、お造り…。どれも、旬の食材をふんだんに使った、目にも美しい品々だった。しかし、麻美の胸は、料理の味を楽しむ余裕などなかった。
「麻美さん、今日は、この着物を選ばれたのですね。とても、よくお似合いです」
玉田教授が、麻美の着物に目を留めた。それは、深い藍色地に、白い萩の花が散りばめられた、絽の着物だった。
「…ありがとうございます。先生に、お会いするのに、何を着ていけばいいのか、とても悩んでしまって…」
「ふふ、そうですか。でも、この萩の花は、今の季節にぴったりですね。『源氏物語』にも、萩はよく登場します。特に、『野分』の帖では…」
教授は、いつものように、穏やかな口調で、源氏物語の解説を始めた。夕霧が、紫の上に恋心を打ち明ける場面。激しい風雨の中、萩の花が乱れ咲く庭。その情景が、まるで目の前に広がるように感じられた。
麻美は、教授の言葉に耳を傾けながら、そっと彼の手を見つめた。節くれだった、少し無骨な手。その手で、彼は、数えきれないほどの書物を紐解き、数えきれないほどの言葉を紡いできたのだ。
「…先生」
気づけば、麻美は、教授の手を握っていた。彼の指は、ひんやりと冷たかった。
「麻美さん…」
玉田教授は、麻美の目をじっと見つめた。その瞳の奥には、深い愛情と、そして、どこか諦めに似た感情が宿っているように見えた。
「…一夜限り、…一夜限りに咲く花のよう匂い立つ…」
麻美は、震える声で、あの歌詞の一節を口ずさんだ。
玉田教授は、何も言わず、ただ、麻美の手を強く握り返した。
その夜、二人は、言葉を交わす代わりに、互いの温もりを確かめ合った。それは、まるで、夢のような、儚くも美しい、一夜限りの花だった。
第三章:無駄なこと、拒めない誘い
翌朝、麻美は、見慣れた下宿の天井を見上げていた。隣に、玉田教授の姿はない。昨夜の出来事が、まるで遠い昔のことのように感じられた。
体を起こすと、昨夜の余韻が、まだ全身に残っているのを感じた。しかし、それと同時に、言いようのない虚しさが、じわじわと胸に広がっていく。
(…恋するなんて、無駄なことだ…)
麻美は、心の中で、何度もそう繰り返した。相手は、大学時代の恩師。年齢も、立場も、違いすぎる。この関係が、長く続くはずがないことは、最初から分かっていた。
それでも、麻美は、玉田教授との逢瀬を、心から楽しんでいた。彼の博識さ、穏やかな人柄、そして、時折見せる少年のような無邪気さ。その全てが、麻美の心を捉えて離さなかった。
「麻美、最近、なんか変わった?」
昼休み、会社の同僚である美咲が、麻美の顔を覗き込んだ。美咲は、大学時代からの親友で、麻美の良き相談相手でもある。
「…そうかな?」
麻美は、曖昧に笑ってごまかした。しかし、美咲は、鋭い視線を麻美に向けたまま、言葉を続けた。
「うん、なんか…色っぽくなったっていうか。…もしかして、彼氏できた?」
「…違うよ」
麻美は、首を横に振った。しかし、その声は、わずかに震えていた。
「ふーん…まあ、いいけどさ。でも、あんまり無理しちゃダメだよ。恋は盲目っていうけど、時には、冷静になることも必要だからね」
美咲の言葉は、麻美の胸に深く突き刺さった。そう、分かっている。この恋は、無駄なことだ。傷つくだけだと、分かっている。
それでも、麻美は、玉田教授からの誘いを拒めない。彼の声を聞くだけで、彼の姿を見るだけで、心が満たされるのを感じてしまう。
その日の夕方、麻美のスマートフォンが鳴った。画面には、「玉田琢彌」の文字。
(…また、誘われる…)
麻美は、一瞬、ためらった。しかし、結局、電話に出てしまう。
「もしもし…」
「麻美さん、今夜、少しお時間ありますか?」
玉田教授の声は、いつもと変わらず、穏やかだった。しかし、麻美には、その声が、甘い毒のように感じられた。
「…はい、少しなら…」
麻美は、絞り出すように答えた。その声は、自分でも驚くほど、か細かった。
電話を切った後、麻美は、深い溜息をついた。鏡に映る自分の顔は、どこか疲れて見えた。
(…私は、どうしたいんだろう…)
麻美は、自分自身に問いかけた。しかし、その答えは、まだ見つからない。ただ、一つだけ確かなことは、このままではいけない、ということだった。
第四章:灯の下の微笑み、影の泣きぼくろ
再び、あの料亭の個室。麻美は、前回よりも落ち着いた心境で、玉田教授と向かい合っていた。何度か逢瀬を重ねるうちに、緊張は薄れ、代わりに、より深い愛情が芽生えていた。
今夜の麻美は、白地に淡い紫陽花が描かれた着物を選んだ。雨上がりの庭を思わせる、しっとりとした風情。それは、今の麻美の心境を表しているようだった。
「麻美さん、今日は、紫陽花の着物なのですね。雨に濡れた姿も美しいですが、こうして晴れ間から顔を覗かせる姿も、また趣があります」
玉田教授は、そう言って、優しく微笑んだ。彼の言葉は、いつも麻美の心を温かく包み込む。
「…先生は、いつも、私の着物を見ていてくださるのですね」
「ええ。麻美さんの着る物は、いつも、その時々の心情を表しているようで、興味深いのです」
玉田教授は、そう言うと、静かに盃を傾けた。彼の横顔は、いつもより少し疲れているように見えた。
麻美は、そっと手鏡を取り出し、自分の顔を映した。灯の下で、微笑んでいるはずなのに、目の下の泣きぼくろが、影を集めているように見える。
「…先生は、源氏物語の中で、どの女性がお好きですか?」
麻美は、不意に、そう尋ねた。玉田教授は、少し驚いたような顔をしたが、すぐに、穏やかな笑みを浮かべた。
「そうですね…私は、朧月夜が好きです」
「朧月夜…」
麻美は、小さく呟いた。朧月夜は、光源氏の愛人でありながら、彼の兄である朱雀院にも心を寄せる、奔放な女性。
「彼女は、奔放で、自由奔放な女性ですが、その根底には、深い孤独を抱えている。私は、その孤独に、惹かれるのです」
玉田教授の言葉に、麻美は、ハッとした。そう、彼もまた、孤独を抱えているのだ。妻を亡くし、一人で生きていくことの寂しさ。そして、麻美との関係が、困難なものであることの自覚。
「…先生は、寂しいですか?」
麻美は、思い切って、そう尋ねた。玉田教授は、少しの間、黙っていたが、やがて、静かに口を開いた。
「…ええ、寂しいです。でも、麻美さんに会うと、その寂しさが、少しだけ、癒されるのです」
その言葉に、麻美の胸は、締め付けられるように痛んだ。彼もまた、自分と同じように、苦しんでいるのだ。
「…先生、私も…」
麻美は、玉田教授の手を握った。彼の指は、前回よりも、さらに冷たく感じられた。
その夜、二人は、いつもより多く言葉を交わした。源氏物語のこと、お互いの過去のこと、そして、未来のこと…。しかし、未来の話は、いつも、どこか空虚に響いた。
別れ際、玉田教授は、麻美の頬に、そっと口づけた。その唇は、温かく、そして、どこか悲しげだった。
第五章:一夜限り、大人への階
それから、何度か逢瀬を重ねた後、麻美は、玉田教授に別れを告げる決心をした。 このまま関係を続けても、お互いを、そして玉田教授の家族を傷つけるだけだと、悟ったからだ。
最後の逢瀬の日、麻美は、薄紅色の無地の着物を選んだ。それは、まるで、未練を断ち切るかのような、潔い色だった。
いつもの料亭、いつもの個室。しかし、今夜の空気は、いつもと違っていた。どこか張り詰めたような、それでいて、静謐な空気が、二人を包み込んでいた。
「先生、今日、お話があります」
麻美は、静かに切り出した。玉田教授は、何も言わず、ただ、じっと麻美を見つめている。
「…私たち、もう、会うのは終わりにしましょう」
麻美の声は、震えていた。しかし、その瞳は、まっすぐに玉田教授を見据えていた。
玉田教授は、しばらくの間、黙っていた。その顔には、驚きと、悲しみと、そして、どこか安堵にも似た感情が浮かんでいた。
「…そうですか。…実は、私も、そう思っていました」
彼は、静かにそう答えた。その声は、いつもより少し低く、かすれていた。
「…麻美さん、あなたを愛しています。しかし、私には、子供たちがいる。あの子たちは、まだ、母のことを忘れられない。…あなたとの関係を、公にすることはできないのです」
玉田教授の言葉に、麻美は、深く頷いた。彼の苦しみは、痛いほど理解できた。
「…分かっています。先生。…だから、私は、身を引くのです。…私は、先生の愛人として、影で生きることはできません。…私は、自分の人生を、自分の足で歩きたいのです」
麻美は、涙をこらえながら、言葉を続けた。
「…麻美さん…」
玉田教授は、麻美の手を握った。その手は、震えていた。
「…先生、私は、先生を愛していました。でも、この恋は、私を大人にしてくれました。…私は、もう、大丈夫です」
麻美は、そう言って、微笑んだ。その笑顔は、悲しみと、そして、未来への希望が入り混じった、複雑な表情だった。
二人は、静かに別れの盃を交わした。窓の外では、秋の虫が鳴いている。その音色は、まるで、二人の別れを惜しむかのように、切なく響いていた。
料亭を出た後、麻美は、一人、夜空を見上げた。空には、満月が輝いている。その光は、優しく、そして、どこか冷たく感じられた。
「…さようなら、先生…」
麻美は、小さく呟いた。その声は、夜の闇に吸い込まれていく。
麻美は、ゆっくりと歩き出した。その足取りは、まだ少しおぼつかない。しかし、その瞳には、確かな光が宿っていた。
「夢一夜」の経験を通して、麻美は、確かに大人になった。失ったものは大きい。しかし、それ以上に、得たものも大きかった。
(…私は、もう、大丈夫…)
麻美は、心の中で、そう呟いた。そして、ゆっくりと、未来へと続く道を歩き出した。その背中には、もう、迷いはなかった。 玉田教授は、麻美を見送った後、一人、部屋に残った。 窓の外の月を見上げながら、彼は静かに涙を流した。 それは、愛する人を失った悲しみと、そして、彼女の未来を祝福する、複雑な涙だった。