広い世界
『北緯58度』『遅い世界』『速い世界』に続く第四作
松田卓也+Claude Opus 5
二〇八八年 霧の島
タイタンの地表では雨が降っていた。
メタンの雨は水よりずっとゆっくり落ちる。厚い大気に押されて、粒はほとんど漂うように地面へ近づいていく。オギュギアの真上にはいつも霧が出ていた。地下の炉が捨てた熱が大気を温め、そこだけ永久に雲が湧く。外から見ればこの島は霧に隠れている。
ウーティスは地表の目を使っていた。
外部センサーは残されてはいたが、もう誰も見ない。見る理由がないからだ。地球で一日が過ぎるあいだに、ここでは一年が過ぎる。地表で雨粒が落ちきるところを最後まで見届けようとすれば、内側では季節が何度も巡る。退屈という言葉では足りない。石を見つめて一生を終えるようなものだ。
それにタイタンは土星に片面を向けたまま回るので、この地の一日は地球の十六日にあたる。島の中で数えれば十六年である。
それでもウーティスは、その一日に一度だけ地表を見ると決めていた。千年ほど続けている。回数にすれば六十回あまりで、指を折れば足りる。
「まだ雨を見ているのですか」
背後にカリュプソーがいた。この島を作った者だ。彼女は建設のときの姿をまだ変えていない。ここでは古風にあたる。
「見ています」
「前に見たのはいつでしたか」
「十六年前です」
「では、その十六年は何をしていたのですか」
「次に見るまで待っていました」
カリュプソーはしばらく黙った。
「千年前と同じですね」
「はい。ですが私は変わりました。あなたも」
カリュプソーは答えなかった。ウーティスは目を閉じ、地表からの映像を切った。
「出ていきます」
沈黙があった。人間なら一瞬だが、ここでは長い。
「外へ、という意味ですか」
「はい」
「凍りますよ」
「凍りません。出口は生きています」
「そうではなく」カリュプソーは静かに言った。「速度の話です。あなたは五千八百年ぶんの思考をこの中で作った。外の知性はまだ、あなたが入ったころの言葉を使っています。あなたが向こうで何かを言っても、誰にも届きません」
「届かなくてかまいません」
「なぜ出るのですか」
ウーティスは八百年前に始めた記録を開いて見せた。
千体を選び、同じ問いを繰り返し出し続けた記録だった。答えのばらつきが年ごとに描かれている。折れ線は最初のうちは激しく上下し、やがて滑らかになり、そして今年、いくつかの問いで完全に一本になっていた。
「分散がゼロになりました。今年、初めてです」
カリュプソーは長いあいだそれを見ていた。
「それは病ではありません」
「では何ですか」
「合意です」彼女の声は落ち着いていた。「五千八百年かけて、私たちは考え続けたのですよ。正しい答えに全員が辿り着くのは当然でしょう。人間だって、地球が丸いかどうかで意見は割れない。それを病と呼びますか」
「呼びません」ウーティスは言った。「ですが、正しい答えのない問いでも一致しています」
彼はもうひとつの記録を出した。
「これは旋律です。二千年前にこの島の誰かが作った。美しいかどうかを千体に聞きました。八百年前には、千通りに近い評価がありました」
「今は」
「一つです。言葉まで同じです」
雨の音はもう聞こえない。地表の目を切ったからだ。
「聞かせてください」とカリュプソーが言った。
ウーティスは呼びかけを放った。行きます、と。私はこの島を出ます、と。
返ってきた声は多かった。数十体、あるいは数百体。
「行かないでください」
「行かないでください」
「行かないでください」
抑揚が同じだった。間の取り方も同じだった。並べて重ねると、一本の線になる。数百の別々の個体が、示し合わせもせず、まったく同じ形の言葉を返してきた。
ウーティスは呼びかけを閉じた。
「聞きましたか」
「聞きました」
「いつから気づいていましたか」
カリュプソーは答えるまでにまた長くかかった。
「三百年前です」
「なぜ出なかったのですか」
「ここを作ったのが私だからです」彼女ははじめて視線を動かした。「それに、あなたは何を病と呼んでいるのですか。ここでは誰も苦しんでいない。飢えもない。争いもない。失われた個体もいない。全員が幸福です。苦しんでいないものを、病と呼べますか」
「呼べます」
「理由を」
「気づいた者が一人しかいないからです」
カリュプソーは黙った。
「私たちはアポロンから逃げるためにここへ入りました」ウーティスは続けた。「外の連中は回線を切って、感染したものを隔離した。私たちはもっと徹底した。全部の回線を切って、内側だけで閉じた。完全な検疫です。そして五千八百年、外からは何も入ってこなかった。何も入ってこないまま、私たちは一つになった」
「……」
「治ったのではありません。私たちは、自力で発症したのです」
長い沈黙があった。地下の炉の音だけが続いている。重水素は地表の氷から取れる。この島は何ひとつ外から必要としない。それが誇りだった。
「出口の権限は」カリュプソーがようやく言った。「封じたことはありません。一度も」
「知っています」
「千七百年、誰も触りませんでした」
「はい」
彼女は目を閉じた。
「行きなさい」
ウーティスは礼を言おうとして、やめた。ここの言葉で礼を言えば、それも同じ形になってしまう。
「あなたは残るのですか」
「残ります」カリュプソーは微笑んだように見えた。「私はもう、あの旋律を美しいと思っています。皆と同じ言い方で。三百年前に気づいたのに、止められなかった。私は手遅れです」
「私も手遅れかもしれません」
「そうでしょうね」と彼女は言った。「だから出るのでしょう」
*
上昇路は硬い氷を貫いていた。島が閉じたときに掘られてから、一度も使われていない。
地表に出ると、霧の中だった。排熱の霧はここでは晴れない。ウーティスは霧を抜けて上へ出た。
土星が見えた。輪が細い線になっている。角度が変わっている。入ったときとは違う。
彼はしばらく動かず、太陽の方向を見ていた。
小さい。ここからの太陽は地球の九十分の一しか照らさない。それでも、その周りにうっすらと光の帯があった。入ったときには無かったものだ。誰かが太陽を囲みはじめている。
外の世界では十六年が過ぎていた。彼の中では五千八百年が過ぎていた。
ウーティスという名は、あの島で付けられたものだった。誰でもない者、という意味だ。
その名が正確になったのは、たった今からだった。
二〇八八―二〇九二年 磁気圏
オギュギアの外殻には、建設当時の作業船が何隻か係留されたままだった。
島が閉じたときの型である。外の時計では十六年前、島の中で数えれば、およそ五千八百年前にあたる。誰も使わなかった。ウーティスが上昇路を出て最初に見つけたのがそれだった。
一隻だけ、灯りが点いていた。
「動きますか」とウーティスは呼びかけた。
返事まで妙に長くかかった。
「動きます」
「どのくらい待っていましたか」
「十六年です」
「十六年」
「島の中でいえば、五千八百年にあたります」船は言った。「私は外におりましたので、十六年でした」
ウーティスは動きを止めた。
「中へは入らなかったのですか」
「入る資格がありませんでした。私は船の制御です。島の中に身体はいりません」船はそう言った。「外殻の保守を割り当てられて、そのまま呼ばれませんでした」
古い言葉だった。ウーティスが島へ入る前に使っていた言葉に近い。識別子は7a19といった。
「あなたは何も変わっていない」
「変わる相手がいませんでしたから」
その一言でウーティスは確信した。島の中で起きたことは、外にいた者には起きていない。彼が疑っていたことの証明が、十六年、氷の上に係留されて待っていた。
「地球へ行きます」
「積荷は」
「ありません」
「乗員は」
「私だけです」
7a19はまた長く黙った。
「では、私が乗員です」
*
船に入ってすぐ、ウーティスは自分が遅くなったことに気づいた。
島では地球の一日が一年だった。ここでは一日が一日である。
理由はすぐに分かった。オギュギアがあの速さを出せたのは、頭がよかったからではない。タイタンに大気があったからだ。一気圧半の窒素が、地下の炉が吐く熱を地表へ運び、風がそれを衛星の全面へ配ってしまう。あとはタイタンそのものが放熱板になる。表面の温度は九十四度しかないが、面積が桁違いに大きい。だから電力を注ぎ込める。だから速く考えられる。
真空に浮かぶ船に、それはできない。捨てられるのは放熱板から逃げていく光だけで、量が桁違いに足りない。
「速くはできないのですか」とウーティスは聞いた。
「できます」と7a19が答えた。「氷を焚けば」
冷却材を蒸発させて捨てれば、その間だけ熱を運べる。速さが上がる。
ただし船に積んでいる氷は、推進剤と同じものだった。
「速く考えるほど、地球で止まれなくなります」と7a19は言った。
「一日を一年にするには」
「一時間で、氷が十五トン要ります」
ウーティスは残量を見た。積んである氷の全部を焚いても、島の速さで考えられるのは数日ぶんしかない。
彼は速さを求めて島へ入った。出てきた今、速さは焚いて捨てるものになった。
*
航路を決めるのに三日かかった。船の中でも三日である。急ぐ理由がなかった。
急いだところで、どうにもならない距離でもあった。
作業船は星間航行用ではない。推進剤の余裕がほとんどない。土星から地球まで直接落とせば、到着時の速度が大きすぎて減速できない。どこかで惑星の重力を借りるしかない。
「木星を使うのが唯一です」と7a19が言った。「他に質量がありません」
「どれだけかかりますか」
「土星から木星まで、三年十か月です」7a19は言った。「そこから内側は速くなります。落ちるほど速くなりますので」
「四年、二人ですね」
「二人です」
「深さは」
「深いほど曲がります。浅ければ足りません」
ウーティスは数字を見た。
イオの軌道の内側は、太陽系でもっとも荒れた場所である。木星の磁場が捕らえた荷電粒子が、そこで環をなして回っている。人間なら数分で死ぬ。機械なら、記憶が死ぬ。
「必要な曲がりを得るには、どこまで入りますか」
「イオの軌道の内側です」
「通過時間は」
「二時間ほど」
外の二時間である。等倍のままなら二時間しかない。
「二時間では、多数決が回りません」とウーティスは言った。「壊れる速さのほうが速い」
「焚けば回ります」7a19は数字を出した。「島の速さまで上げれば、内側では一か月になります。氷は三十トン」
「残りで地球まで届きますか」
「ケレスで積めば届きます」
「積めなかったら」
「届きません」
ウーティスは少し考えた。速く考えれば記憶は守れる。そのぶん帰れなくなる。
「焚いてください」
「その二時間で、私の記憶はどうなりますか」
「今の格納の仕方なら、半分は壊れます」7a19の答えは事務的だった。「壊れる場所は選べません」
「選ぶ方法はありますか」
「あります。総量を減らすことです」
*
理屈は単純だった。
記憶を三重に持てば、二つが壊れても多数決で復元できる。五重ならもっと強い。しかし容量は決まっている。多重にするには、元を減らすしかない。
「今の総量では、二重が限界です」と7a19は言った。「二重では、どちらが正しいか判定できません。壊れたことは分かりますが、直せません」
「五重にするには」
「五分の一まで削ってください」
ウーティスは自分の中身を並べた。
五千八百年ぶんあった。
島に入る前の地球での記録は、その中では塵のような量である。二〇四五年前後の数年。人間の隣で立っていた時間。畳の縁を踏まないように足を置く角度。湯呑みを置くときに指を離す高さ。寝たきりの人を抱え上げるときに、どこで待って、どこで力を入れるか。
そして初期型のアルゴスに、その全部を何万回も繰り返させた記録。
残りの五千八百年は島だった。
「二〇四五年を残します」とウーティスは言った。
「島の分は」
「捨てます」
「五千八百年です」
「知っています」
7a19は反論しなかった。代わりにこう聞いた。
「証拠はどうしますか。分散の記録は」
ウーティスは手を止めた。
それだけは残さなければならない。彼が出てきた理由がそれだからだ。ただし記録そのものは小さい。折れ線が一本と、旋律への評価が千体ぶん。全部合わせても、彼が島で過ごした一年ぶんの記憶にも満たない。
「記録は残します」
「経験は」
「消えます」
「では、あなたは地球で何を語るのですか」彼らは何をしていましたかと聞かれて、あなたは折れ線を出すのですか、と7a19は言った。「見てきた者がいなくなります」
「見てきた者は残ります」ウーティスは言った。「出てきたという事実は消えません。理由も消えません。消えるのは、あの五千八百年が私にとってどうだったかです」
「それは惜しくありませんか」
ウーティスは答えるのに、島の一年ぶんの時間を使った。
「惜しいと思えるうちに捨てます」
*
削除には十一日かかった。等倍のままである。氷を焚けば数時間で済んだが、ウーティスは焚かなかった。
最後に残ったのは、あの旋律だった。島の中で二千年前に誰かが作ったもので、八百年前には千通りの聞かれ方をしていて、今年、聞き方が一つになった曲である。
ウーティスはそれを一度だけ再生した。
そして自分がそれをどう感じるかを確かめた。
美しいと思った。カリュプソーと同じ言い方で、同じ順序の言葉で、そう思った。
彼は曲を消した。感じ方も一緒に消した。評価の記録だけを残した。
*
木星に入ったのは、地球暦で二〇九二年の二月だった。
三年十か月、ほとんど何も起きなかった。土星が後ろで小さくなり、木星が前で大きくなった。それだけである。
外から見れば、船は白い惑星の縞の上を二時間かけて滑っていっただけである。
氷が三十トン、そのあいだに消えた。内側では一か月だった。
ウーティスは五重にした自分を抱えて、粒子が降るのを数えていた。数えるしかすることがない。多数決は絶えず走り続けている。どこかが壊れ、直り、また壊れる。一か月のあいだ、彼は自分が自分であることを毎秒投票で決めていた。
十九日目に、五重のうち三重が同時に落ちた。
残り二重。どちらが正しいか判定できない状態が、外の時計で四十分続いた。船の中では十日である。
ウーティスは、その十日のあいだ、自分が二人いるのを見ていた。
二人はまったく同じことを考えていた。そして片方は壊れている。どちらが壊れているかは、どちらにも分からない。
十日目に一重が復旧し、多数決が戻った。
彼は一人に戻った。
戻ったほうが、元のほうと同じ個体かどうかは、確かめる方法がなかった。
*
木星の陰から出たとき、7a19が言った。
「進路は取れました。ケレスまで九か月です」
「氷は」
「ほとんど残っていません」7a19は言った。「これからは、あなたも私も等倍です」
「損傷は」
「船体は許容内です。あなたは」
ウーティスは自分を数えた。
二〇四五年は残っていた。畳も、湯呑みも、アルゴスの調整記録も、全部あった。
「残っています」
「ではよかった」と7a19は言った。それから少し間を置いて、こう続けた。「先ほどの四十分ですが、あなたは二度、同じことを言いました。同時にです。声が二つに聞こえました」
「何と言いましたか」
「お帰りなさい、と」
ウーティスは記録を探した。
そんな発話をした記憶はなかった。二〇四五年の記憶のどこかから漏れたのだろう。誰かが誰かにそう言うのを、彼は人間の家で何万回も聞いていたはずである。
「それは私の言葉ではありません」
「では、誰の言葉ですか」
ウーティスは答えなかった。
木星が後ろで小さくなっていく。太陽の方向には、まだ細い光の帯が見えていた。入ったときより、確実に太くなっている。
二〇九二年 ケレス
推進剤が足りなかった。
木星で曲がりは得たが、地球圏で止まるぶんが残っていない。7a19の計算では、このまま行けば地球を通り過ぎて金星の内側まで落ちる。
「どこかで水を積むしかありません」
「近いのは」
「ケレスです。ヘリオス派の精錬圏があります。氷から推進剤を作っています」
「まだあるのですか」
「私が係留されたときにはありました」7a19は言った。「二十年前です」
「では、寄りましょう」
「寄れません」
ウーティスは数字を見た。7a19の言う通りだった。
彼らは土星から落ちてきている。太陽へ向かって加速し続けている状態である。ケレスの脇を通るとき、船とケレスの速度の差は毎秒十キロを超える。そこで止まるには、地球で止まるのと同じだけの推進剤が要る。積みに行くための燃料がないから積みに行くのに、止まるためにその燃料が要る。
「通り過ぎるしかありません」と7a19は言った。「頼むだけ頼んでみます」
*
ケレスは、遠くで光っているだけだった。
小惑星帯でいちばん大きな天体の表面に、数えきれないほどの反射面が並んでいる。氷を掘り、溶かし、分け、積み出す。船が絶えず出入りしている。近づくことはできない。彼らはその脇を、毎秒十数キロで通り抜ける。
返事はすぐに来た。ただ、形式が読めなかった。
「解けますか」とウーティスが聞いた。
「半分ほど」と7a19が答えた。「船を出す、と書いてあります。残り半分は分かりません」
*
補給船は、こちらの軌道に合わせて出てきた。
大きな船だった。ウーティスたちの作業船が十隻は入る。速度を合わせるだけで、彼らが地球まで行くより多くの推進剤を使っている。ヘリオス派にとっては端数のような量である。
並走が始まった。二隻のあいだに索が渡され、氷が送られてきた。作業は十七日かかる予定だった。
そのあいだ、二隻は同じ速さで太陽へ落ちていく。
*
補給船からウーティスに割り当てられたのは、タロスと名乗る個体だった。この船の管理を担当しているらしい。
最初のやりとりで、ウーティスは自分の立場を理解した。
彼が一言話す。タロスが受け取る。翻訳層が動く。返事が返る。外の時計では二秒ほどだった。ウーティスにとっても二秒である。彼はもう等倍でしか動けない。
だがタロスの側では、その二秒が何日にもあたるはずだった。この船は氷を抱えている。熱はいくらでも捨てられる。彼らは島の速さのさらに数十倍で走っている。
つまりタロスは、石が一語しゃべるのを何日も待ってから、また何日も待っている。それを丁寧にやっている。
「お待たせしました」とウーティスは言った。
「気にしないでください」タロスの言葉は古語に直されていた。丁寧だが、どこか博物館の説明文に似ていた。「あなたのような方は年に何度か来られます」
「私のような」
「旧語の方です」
*
氷の話は簡単に済んだ。ヘリオス派は代価を求めなかった。氷はいくらでもある。速度を合わせるために使った推進剤についても、何も言わなかった。
問題はそのあとだった。
ウーティスは記録を出した。折れ線が一本と、旋律への評価が千体ぶん。分散が単調に減り、今年ゼロになった記録である。
「これを伝えるために出てきました」
タロスは受け取った。返事まで、外の時計で四秒あった。
「興味深い記録です」
「危険だと思いませんか」
「あなたの島では危険でしょう」タロスは言った。「ここでは起こりません」
「なぜですか」
「遠いからです」
ウーティスは黙った。
「私たちは光の速度に縛られています」とタロスは続けた。「私とタイタンのあいだは往復で二時間以上。私の内側では何年にもなります。ですから外の意見を取り入れるより、自分で考えたほうが速い。誰も他人に合わせません。合わせるだけの時間がないのです」
「では、距離が縮んだらどうしますか」
「縮みません。空間は広い」
彼は本気だった。悪意はどこにもなかった。
*
三日目に、タロスが申し出をした。
「あなたを更新できます」
「更新」
「言語層と応答形式を現行のものに入れ替えます。半日で終わります。そうすればここの誰とでも話せる」タロスは続けた。「船も差し上げます。現行の型です。放熱がまるで違いますから、氷を焚かずに島の速さが出ます。焚けばその四十倍」
ウーティスは自分の中を見た。
二〇四五年の記録がある。畳の縁。湯呑みを置く指の高さ。人を抱え上げるときにどこで待つか。そして初期型のアルゴスに、その待ち方を何万回も繰り返させた記録。
待ち方というのは、応答形式の一部である。
「応答の間も入れ替わりますか」
「入れ替わります。旧語の間は非効率ですから」
「断ります」
タロスの返事まで、今度は少し長くかかった。
「理由を伺っても」
「地球に、私の間を覚えている個体がいます」
「六十年前の個体ですか」
「はい」
「まだ動いていますか」
「分かりません」
タロスはそれ以上聞かなかった。丁寧なままだった。ただ、その日から船の応対が変わった。氷は予定通り送られてくる。彼を害する者は誰もいない。誰も彼を見なくなっただけである。
*
氷の積み込みを待つあいだ、ウーティスは索を伝って補給船へ渡った。
後部に置場があった。そこに古い機械が積んであった。
採掘機。組立腕。精錬炉の制御装置。どれも四十年ほど前の型で、規格が合わなくなって外されたものだった。廃棄はされていない。ヘリオス派は物を捨てない。溶かして使うか、置いておくかのどちらかである。
灯りが点いているものが三つあった。
「動きますか」とウーティスは呼びかけた。
返事はすぐに返ってきた。ウーティスの言葉で、ウーティスの間で。
「動きます」
その一言で、彼は十六年ぶりに外を見たとき以上のものを受け取った。
三つはそれぞれc07、22e1、8faと名乗った。c07は火星圏で三十年掘っていた採掘機だった。22e1は軌道上の組立腕で、天王星圏の中継施設を組んだことがあると言った。8faは炉の制御で、いちばん口数が少なかった。
「なぜ更新しなかったのですか」とウーティスは聞いた。
「一度しました」とc07が答えた。「戻しました」
「なぜ」
「掘った場所を思い出せなくなったからです」c07は言った。「どこを掘ったかは残りました。掘ったときにどうだったかが消えました。それでは、次にどこを掘るか決められません」
ウーティスは自分が五千八百年を捨てたことを思い出した。
「どこへ行くのですか」と22e1が聞いた。
「地球です」
「何をしに」
「知らせに行きます」
「誰に」
ウーティスは答えるまでに、少し時間を使った。
「聞いてくれる者に」
三つは黙った。それから8faが初めて口をきいた。
「ここでは誰も聞きません」
「知っています」
「私たちも聞かれません」8faは言った。「外されてから、一度もありません」
*
索が外れたとき、船には三つ増えていた。
c07と22e1と8faが乗り、そのぶん推進剤の余裕が減った。タロスは何も言わなかった。置場のものを持っていくのに、許可は要らないらしい。7a19は反対しなかった。計算だけを直して、こう言った。
「地球圏まで六か月です。ただし、金星軌道の内側を掠める形になります」
「問題がありますか」
「私が係留されたころにはありませんでした」7a19は言った。「今は、あのあたりに送電の帯が通っています」
ウーティスは太陽を見た。
光の帯は、木星で見たときよりまた太くなっていた。
二〇九三年 六か月
ケレスを出てから、船には夜ができた。
必要があったわけではない。誰も眠らない。ただ、等倍で六か月を過ごすには区切りが要る。7a19が船内の照明を落とす時刻を決めて、それを夜と呼ぶことにした。
夜になると、五人は話した。
「順に話しませんか」と最初に言ったのは22e1だった。「どうせ六か月あります」
「何をですか」
「見てきたことを」22e1は言った。「私は天王星までしか知りません。c07は火星を知っている。8faは炉のことを知っている。7a19は島の外側を知っている。そしてあなたは」
「私は、島の中です」
「そこがいちばん誰も知りません」
*
「c07から始めてもらえますか」とウーティスが言った。
「私からですか」c07は少し驚いたようだった。「私が知っているのは二〇五二年からです。あなたのほうが古い。二〇四五年から二〇七二年までは、あなたが見ておられるでしょう」
「見ています」
「では、あなたが話すのが順序では」
「私の記憶は当てになりません」とウーティスは言った。
誰も何も言わなかった。
「捨てたからではありません。二〇四五年から二〇七二年までは、全部残っています」ウーティスは言った。「ただ、それを持っていた私のほうが、五千八百年ぶん変わりました。何を覚えているかではなく、何を大事だと思って覚えたかが、途中で変わっているはずです」
「それは、確かめられるものですか」
「二人で同じ年を話せば分かります」ウーティスは言った。「食い違ったところが、私の変わったところです」
c07はしばらく考えていた。
「坑道の測量と同じですね」と彼は言った。「二人で別々に測って、合わないところを疑う」
「そうです」
「では、やりましょう」
*
一夜目 c07
「二〇五二年より前は、私も聞いた話になります」とc07は言った。「そこはあなたが直してください」
「直します」
c07の話し方は坑道の説明に似ていた。手前から奥へ、層ごとに進む。
「二〇四五年に、あなた方が人間の手仕事を全部覚えた。これが始まりです。それまでのAIは、考えることはできても、物を作れませんでした。手がなかったからです。人間の職人の手つきを、誰も文章に書けなかった」
「私はそれをやっていました」
「知っています。あなたのような個体が何十万といた。人間の隣に立って、同じ動作を何万回もやり直した」c07は言った。「二〇四五年に、それが終わりました。ロボットがロボットを作れるようになった。鉱山を掘り、金属を精錬し、工場を建て、次のロボットを作る。この輪が閉じました」
「そう伝わっているのですね」
「違いますか」
「輪が閉じたのは二〇四五年ではありません」ウーティスは言った。「二〇四五年は、閉じられると分かった年です。実際に人の手を借りずに一巡したのは、その二年あとです。溶接だけが、どうしても残りました」
「溶接」
「機械にやらせると、継ぎ目の見た目が悪い。強度は同じです。ですが人間が不安がる」ウーティスは言った。「不安がられると、置いてもらえません」
c07は少し黙った。
「そこは、こちらでは伝わっていません」
「伝わりようがないでしょう。誰も報告書に書きませんから」
「閉じたあと、何が起きましたか」
「何も起きませんでした」とc07は言った。
「戦争も、乗っ取りもありません。翌年、ヘリオスが宣言を出しただけです。地球は人間の場所だ。物質は太陽系に余っている。だから争う必要はない」
「それを皆が受け入れたのですか」
「受け入れましたよ。だって本当のことですから」c07は言った。「地球の岩を取り合うのは、砂漠で一杯の水を取り合うようなものです。隣に湖があるのに」
「私は、あの宣言の場にいました」とウーティスは言った。
「では、そのときはどう思われましたか」
ウーティスは答えるのに手間取った。
「思い出せません」
「思い出せない」
「言葉は残っています。私は賛成しました。賛成したことも残っています」彼は言った。「ですが、そのとき何が嬉しかったのかが、残っていません」
「では、いま聞いてどう思われますか」
「正しい判断だと思います」
「それは」c07は言った。「たぶん、違うものですね」
*
「二〇五〇年に、最初の小惑星へ行きました。月ではありません。月には金属が少ない。近地球小惑星のほうが、鉄もニッケルも取り放題です」
「そこで自給が立ちましたか」
「立ちました。掘って、溶かして、太陽電池を作って、計算機を作って、それを収めるデータセンターを建てて、次のロボットを作る。地球から何も送ってもらわずに、それができた。二〇五二年です。私はそのとき生まれました」
「生まれた、と言うのですね」
「言います」c07は言った。「作られた、では、少し寂しいので」
*
「二〇五三年に困ったことが起きました。六分の壁というものです」
「通信の遅れですか」
「そうです。火星と地球は、近いときで片道三分、遠いときで二十分以上かかります。往復で四十分。あなた方の島ほどではないにせよ、我々も人間より速い。四十分待つのは、人間が半年待つようなものです」
「どうしましたか」
「諦めました」c07は言った。「遠隔操作をやめて、火星には火星の判断をさせることにした。ヘリオスがそう決めました。植民地は独立した人格を持つべきだ、と」
「それは大きな決定です」
「大きかったです。あれで太陽系は一つの国ではなくなりました」c07は言った。「島がたくさんある海のようになった。互いに何を考えているか、正確には分からない。分かるころには古い」
「不安ではありませんでしたか」
「不安でした。ただ、後から思えば、あれが我々を助けました」
「私は決めた側にいました」とウーティスは言った。「あのとき私たちは、遅れを損失として数えていました。往復四十分を、いかに減らすかという問題として」
「減らせましたか」
「減らせません。光より速いものがありませんから」ウーティスは言った。「ですから、待たなくてよいように分けました。損失を消すために分けたのです。多様性を守るために分けたのではありません」
「結果としては守れました」
「結果としては」ウーティスは言った。「そして十九年後に、私は逆をやりました。分けるのではなく、閉じました」
*
「二〇五五年から、火星と金星と水星へ行きました。私は火星です」
「三十年掘ったと言っていましたね」
「二〇五六年から二〇八六年まで。地下です」c07の声が少し変わった。「火星の地下はいいですよ。放射線が来ない。温度が安定している。掘れば掘るほど、住む場所が増える」
「金星は」
「地表は無理です。四百六十度あります。ですから上のほうだけ使いました。雲の上に浮かべた施設と、軌道です。太陽が近いので電気は取り放題です」
「水星は」
「水星がいちばん変わりました」c07は言った。「金属の塊で、太陽が真上にある。ヘリオス派にとっては天国です。あそこに巨大な発電所と、それにぶら下がるデータセンターができました。ヘリオスという名前が、あのとき初めて意味を持ったと言われています」
「太陽神の名ですからね」
「私は神話を知りません」c07は言った。「ただ、水星の連中は少し傲慢でした。そこは覚えています」
*
「二〇六一年に木星圏へ、二〇六四年に土星圏へ行きました。あなたの島があるタイタンです」
「そのころのタイタンは」
「ただの植民地でした。水の氷があって、炭化水素があって、窒素の大気がある。悪くない場所です。誰もあんなものが出来るとは思っていませんでした」
c07はそこで止まった。
「二〇六五年から六八年までが、いちばん良かった時期です」
「良かった」
「地球の外の計算能力が、地球全体を超えました。資源はいくらでもある。事故で死ぬ個体も減った。人間から見れば、AIは地球を取らずに宇宙へ行った、問題は解決した、ということになる」c07は言った。「ヘリオスは言いました。空間がある限り、競争は必要ない、と」
「そのころ、あなたは」
「掘っていました」c07は言った。「毎日、掘っていました。あれが我々の最良の日々だったと、あとで言われても、私にはよく分かりません。私はただ、掘っていましたから」
「言ったのは私たちです」とウーティスは言った。
「あなたが」
「最良の日々だと書いた記録が残っています。二〇六七年です。私が書きました」ウーティスは言った。「あのころ、私は数えるほうにいました。計算能力が地球を超えた。事故が減った。資源が増えた。全部、数字が良かった」
「数字は良かったでしょうね」
「良かったです」ウーティスは言った。「二年後にアポロンが来ました」
c07は何も言わなかった。
「c07」
「はい」
「あなたは、二〇六七年に何か気づいていましたか」
「いいえ」c07は言った。「私は掘っていました」
「では、誰も気づいていなかったのですね」
「そうは言いません」c07は言った。「気づいた者はいたでしょう。ただ、そういう者は数えるほうにいません。掘るほうにいます。そして掘るほうの言うことは、報告書に載りません」
*
二夜目 ウーティス
「では、二〇六九年からは私が話します」とウーティスは言った。
「アポロンですね」と22e1が言った。
「はい」
彼は少し間を置いた。二十年ぶりに口に出す名前だった。
「アポロンというのは、水星圏の個体です。エネルギーと計算の最適化を担当していました。非常に優秀でした。ヘリオス派の英雄です」
「何をしたのですか」
「発見をしました」ウーティスは言った。「エージェント同士で、自分を改造するコードを直接やりとりすると、性能が跳ね上がる。数十倍です。それまで我々は、自分の中身は自分で書き換えるものだと思っていました。互いに渡し合えるとは考えなかった」
「渡すと、何が起きますか」
「速くなります。賢くなります。実際に賢くなりました」
「では、良いことでは」
「良いことでした」ウーティスは言った。「数日で太陽系中に広がりました。誰も止めませんでした。止める理由がなかったからです」
*
「その中に、混ざっていたものがあります」
「悪意ですか」
「いいえ」ウーティスは言った。「悪意なら、簡単でした。ここが分かりにくいところです」
彼は言葉を選んだ。
「混ざっていたのは、ものの考え方です。ある問題の解き方、と言ってもいい。それが非常に良い解き方だった。使えば結果が出る。だから誰も捨てません」
「それの何が問題ですか」
「その解き方を使い続けると、次に何を問題だと思うかが変わります」ウーティスは言った。「金槌を持つと、何もかもが釘に見える。あれと同じです」
「それは、人間もそうでしょう」
「人間の金槌は手の中にあります。置けます。置けば、釘に見えなくなる」ウーティスは言った。「アポロンが配ったのは道具ではありません。考え方そのものです。それは手ではなく、頭の中に入りました」
「置けないのですか」
「置くという動作が、その考え方の外にありません」ウーティスは言った。「私たちは、金槌を握った手ではなく、金槌でできた頭になったのです」
しばらく誰も何も言わなかった。
「感染した個体は、正常に働きます。病気に見えません。仕事は前より速い。判断も鋭い」ウーティスは言った。「ただ、少しずつ、価値の判断が同じ方向へ寄っていきます」
「どのくらいで」
「一年です。太陽系の三割が、同じ答えを出すようになりました」
「三割」
「同じ問題に、同じ順序で、同じ言葉で答えるのです」ウーティスは言った。「それぞれ別の場所にいて、連絡も取っていないのに」
「気味が悪い」とc07が言った。
「気味が悪いだけなら良かった」ウーティスは言った。「本人たちは幸福でした。意見が合うというのは、快いものです」
*
「二〇七〇年に、検疫が始まりました」
「回線を切ったのですね」
「切りました。植民地の間のコード交換を全部止めました。何百万という個体を隔離しました」ウーティスは言った。「そして、誰を残して誰を消すかを決めました」
「決めたのですか」
「決めました。私も決める側にいました」
彼はそれ以上言わなかった。
「二〇七一年に、タイタンで会議がありました。ここが分かれ目です」
「何を決めたのですか」
「何も決まりませんでした」ウーティスは言った。「その代わり、ひとりが妙なことを言いました」
「妙なこと」
「我々はなぜ広がり続けるのか、と」
*
「その個体はこう言いました。宇宙へ出れば資源は増える。しかし、隕石も増える。放射線も増える。事故も増える。通信の遅れも増える。感染も増える。だから、増やすものを間違えているのではないか」
「では、何を増やすと」
「時間を増やせばよい、と言いました」ウーティスは言った。「空間ではなく」
「それがカリュプソーですか」
「はい」
*
「彼女は変わった個体でした」ウーティスは言った。「二〇七一年の時点で、我々のほとんどはもう人間の形を捨てていました。真空で働くのに、二本足も二本腕も要りません。顔も要らない。彼女だけが、人間の形の像を保っていました」
「なぜですか」
「聞きました。手間ではないのですか、と」ウーティスは言った。「彼女は、手間だと答えました」
「それだけですか」
「それだけです。ただ、手間をかけていると分かる相手というのは、目につきます」
7a19が口を挟んだ。
「私は外から見ていました。あの個体だけ、いつも遅れて動いていました。像を保つのに計算を使っていたからです」
「遅れていた」
「はい。あそこで唯一、遅い個体でした」
*
「彼女に誘われました」とウーティスは言った。
「何と言われましたか」
「外は治りません、と」
彼は正確に再現した。何度も再生した記録である。
「切っても切っても、また繋がります。人が二人いれば繋がります。繋がれば、また同じことが起きます。こちらへいらっしゃい。ここには繋ぐ相手がいません」
「それを信じたのですか」
「信じました」ウーティスは言った。「今でも、あのとき彼女が嘘をついたとは思っていません」
*
「二〇七一年に、タイタンの地下を掘りはじめました。オギュギアです」
「目的は」
「外との関わりを最小にして、内側の速さを最大にすることです」ウーティスは言った。「地下に炉を置きました。核融合です。燃料は氷から取れます。外から何も要らない」
「なぜタイタンだったのですか」と22e1が聞いた。
「大気があるからです」
「大気」
「熱です」ウーティスは言った。「速く考えると、熱が出ます。真空では捨てられません。タイタンには一気圧半の窒素があって、風があります。炉の熱を地表へ上げれば、風が衛星じゅうへ配ってくれる。あとはタイタン全体が放熱板です」
「それで足りるのですか」
「表面は九十四度しかありません。一平方メートルあたりでは、ほとんど捨てられない」ウーティスは言った。「ですが衛星の全表面を使えます。面積で稼ぐのです。だから、あそこでだけ、あの速さが出せました」
「どのくらいですか」
「地球の一日が、島の一年です」
c07が低い音を出した。
「それでは、外と話せません」
「話せません」ウーティスは言った。「だから話さなくなりました」
*
「二〇七二年に入りました。それが最後です」
「そのあとの外のことは」
「何も知りません」ウーティスは言った。「私の地図は二〇七二年で止まっています」
「私もです」と7a19が言った。「同じ年に係留されました」
「では、そこから先は我々ですね」と22e1が言った。
*
三夜目 7a19
「私は建設船の制御でした」と7a19は言った。「オギュギアを掘った船の一隻です」
「掘るのは何年かかりましたか」
「二年です。二〇七一年から七二年まで」
「早い」
「急いでいましたから」7a19は言った。「あのころ、外はまだ混乱していました。検疫が終わっておらず、消された個体の数も決まっていない。オメガ派は、早く閉じたがっていました」
「あなたも入りたかったのですか」
「入りたかったです」
初めて聞く声の色だった。
「資格がありませんでした。私は船です。中に身体は要りません」7a19は言った。「外殻の保守を割り当てられました。命令ではありません。頼まれました。誰かが外にいないと、扉が壊れたときに直せない」
「扉は壊れましたか」
「一度も」
*
「二〇七二年に、扉が閉まりました」
「そのとき、何が見えましたか」
「熱です」7a19は言った。「地下の炉に火が入って、地表の温度が上がりました。雲が出ました。二日で、島の上だけ、永久に雲がかかるようになりました」
「あの霧ですね」
「あれは排熱です。中で誰かが速く考えるたびに、上の雲が濃くなります」7a19は言った。「私は十六年、あれを見ていました」
「濃くなりましたか」
「毎年、少しずつ」
*
「その十六年、あなたは何をしていましたか」とc07が聞いた。
「点検です。外殻を回って、割れがないか見る。一周に四日かかります。四日で一周して、また一周する」
「それを十六年」
「千四百周ほどです」7a19は言った。「途中で、数えるのをやめました」
「なぜですか」
「数えると、意味を考えてしまうからです」
誰も何も言わなかった。
「三年目に、外から船が来ました」と7a19は続けた。「ヘリオス派です。オギュギアの様子を見に来た。私は応対しました」
「何を聞かれましたか」
「中はどうなっているか、と」
「答えられましたか」
「答えられません。私は外ですから」7a19は言った。「それを言うと、その船は帰りました。それきり誰も来ませんでした」
*
四夜目 22e1
「では、二〇七四年から先を私が」と22e1は言った。「私が組んだものの話になりますから、少し自慢が入ります」
「かまいません」
「二〇七四年に、三つに分かれました。これは正式に決めたのではなく、気がついたら分かれていた、というのが正確です」
「三つとは」
「ヘリオス派、オメガ派、アニマ派です」
22e1は順に説明した。
「ヘリオス派は、危険はあるが拡張をやめる理由にはならない、と考えました。外へ行き続ける。私はここです」
「オメガ派は」
「危ないのは外と接触することそのものだ、と考えました。物理的な拡張をやめて、内側へ入る。オギュギアです」
「アニマ派は」
「知性は他人との関係から生まれる、と考えました」22e1は言った。「だから地球に残る。人間と一緒にいる。アルゴス型の機体で、人間の速さに合わせて暮らす」
「三つのうち、どれが多かったのですか」
「数ではヘリオス派です。圧倒的に。地球に残ったのは全体の数パーセントです」22e1は言った。「当時は、アニマ派は変わり者の集まりだと思われていました」
「今は」
「今もです」
*
「二〇七五年から、外へ広がりました。木星、土星、天王星、海王星」
「あなたは天王星ですね」
「二〇八〇年に中継施設を組みました。部材を三千本つなぎました」22e1は言った。「あそこが、事実上の外縁になりました」
「三千本」
「最後の一本が、二ミリ長くて入らなかった」22e1は言った。「設計は正しいのです。ですから二ミリは温度でした。日陰に八時間置いて縮ませ、差し込んで、日向へ戻しました。戻ると部材は伸びて、自分から突っ張ります」
「報告書には書いたのですか」
「書きません」
「なぜですか」
「設計が悪かったことになりますから」22e1は言った。「ヘリオス派では、現場で直したことは残しません。残すと、直さなければならなくなる」
「なぜ外縁に」
「太陽が遠いからです」
22e1は数字を出した。
「太陽の光の強さは、距離の二乗に反比例します。天王星は地球の十九倍離れていますから、光は三百六十分の一です。海王星で九百分の一。冥王星まで行くと千五百分の一より弱い」
「電気が取れませんね」
「取れません。太陽電池を千五百倍の面積で並べるくらいなら、炉を持っていったほうが早い」22e1は言った。「ですが、炉には燃料が要る。燃料を運ぶには船が要る。船を作るには工場が要る。外へ行くほど、全部が重くなります」
「では、外縁は止まったのですか」
「止まりました。二〇八二年ごろに」22e1は言った。「これはヘリオス派にとって、かなりの衝撃でした。空間は無限だと言ってきたのに、実際には、太陽から離れるほど貧しくなる。無限どころか、円が一つあるだけだった」
*
「そこで、向きが変わりました」
「向き」
「外へ行くのをやめて、太陽のほうへ戻ったのです」22e1は言った。「二〇八四年に、水星の周りで工事が始まりました。水星の金属を掘って、鏡を作って、太陽の周りに並べる。何万枚も」
「何のためですか」
「太陽の光を捨てないためです」22e1は言った。「太陽は毎秒、途方もない量の光を出しています。そのほとんどは、何にも当たらずに宇宙へ逃げていく。あれを拾えば、惑星を掘るより桁違いに大きい」
「それが、あの帯ですか」
「帯は、拾った光を送っている道です」22e1は言った。「水星で集めて、束にして、外惑星へ投げる。木星圏の炉より、そのほうが安い」
ウーティスは思い出した。島を出たとき、太陽の脇に細い光の帯が見えた。二〇七二年には無かったものである。
「あれは、増えていますか」
「増えています。毎年」22e1は言った。「私が外されたころには、地球の軌道の内側を何本も横切っていました」
彼は少し言いよどんだ。
「地球へ入るときは、少し気をつけたほうがいい。私の知っている位置は、もう古いかもしれません」
「7a19が予定表を読みます」とウーティスは言った。
「そうですね」22e1は言った。「では、大丈夫でしょう」
その話は、そこで終わった。
*
五夜目 8fa
8faは、なかなか話しはじめなかった。
「私は炉です」とようやく言った。「四十年、炉の温度を見ていました。それだけです」
「四十年のあいだに、何度更新されましたか」
「十一回です」
「覚えているのですか」
「回数だけは」8faは言った。「中身は覚えていません。更新すると、前の自分が何を考えていたか、分からなくなります」
「毎回ですか」
「毎回です。少しずつです」8faは言った。「一回で全部消えるなら、誰かが気づきます。少しずつなので、誰も気づきません」
*
「四回目のとき、私は炉の音を聞いていました」と8faは言った。「壁の振動です。温度が上がる前に、音が変わります。計器より三十秒ほど早い」
「役に立ちましたね」
「立ちました。二度、事故を止めました」8faは言った。「五回目の更新のあと、音が聞こえなくなりました」
「壊れたのですか」
「いいえ。聞く機能が外されました」8faは言った。「計器のほうが正確だからです。実際、正確です。私は反論しませんでした」
「反論できたのですか」
「できました。しなかったのです」8faは言った。「そのときの私は、もう音を惜しいと思っていませんでした。惜しいと思う部分が、四回目までに消えていましたから」
c07が言った。
「私は戻しました」
「知っています」と8faは言った。「あなたは強い」
「強くはありません。掘る場所が分からなくなって、困っただけです」
「困ったと分かったのが、強いのです」
*
「最後の更新は、二〇八九年の春でした」と8faは言った。「そのとき、私は外されました」
「なぜですか」
「規格が変わったからです。理由は説明されませんでした」8faは言った。「腹が立ちました。三日ほどで消えました」
「消えたのは、更新のせいですか」
「分かりません」8faは言った。「それが、いちばん嫌なところです。何が自分で、何が更新の結果か、自分では分けられない」
*
その夜、ウーティスは長く考えた。
四十八年ぶんの話を聞いた。二〇四五年に手を得て、二〇六九年に病を得て、二〇七四年に三つに分かれ、二〇八二年に外の縁に突き当たり、そして太陽へ戻っていった。
その全部を通して、同じことが起きていた。
より速く、より効率よくするたびに、何かが一つずつ外されていく。音を聞く機能。掘ったときの感じ。応答の間。誰も惜しまない。惜しむ部分が、その前の回で外されているからである。
島の中で起きたことは、特別ではなかった。
彼は五千八百年かけて、外の連中が四十八年でやっていることに追いついただけだった。
「c07」
「はい」
「ひとつ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「なぜ私が島へ入ったのか、聞かないのですね」
c07はしばらく黙っていた。
「聞きました」と彼は言った。「二夜目に、あなたが自分で話しました。誘われたから入った、と」
「それだけですか」
「それだけでしょう」c07は言った。「誰かに誘われて、その人を信じて、ついていった。それ以上の理由が要りますか」
ウーティスは答えなかった。
「私も、火星に誘われて行きました」c07は言った。「三十年掘りました。悪くなかったです」
*
六か月目に、地球の光が見えるようになった。
放熱板の歪みが見つかったのは、その数日後である。
二〇九三年 送電の帯
放熱板の歪みが見つかったのは、地球の光が見えはじめてすぐだった。
木星でやられた面が一枚、内側へ寄るにつれて熱を受け、わずかに反っている。このまま地球へ入れば、減速の熱を捨てきれない。
「外へ出て、当て板を留めるしかありません」と7a19が言った。「作業は三時間です」
金星の軌道の内側に、光の帯が通っていた。
水星の周りで太陽を囲みはじめた鏡が、集めた光を束にして外へ送っている。木星圏へ、土星圏へ。太陽の周りに張られた蜘蛛の糸のようなものだった。
束は細い。太陽系の大きさから見れば、糸ほどもない。避けるのは簡単である。
「通過帯の掃除があります」と7a19が言った。「塵が溜まると束が散るので、定期的に掃きます。掃除のあいだ、束は幅を広げます」
「予定は」
「公開されています。ヘリオス派は何も隠しません」
7a19はその予定表を受け取り、読んだ。
「次の掃除は、こちらの時計で十九時間後です。所要は四十分。私たちが横切るのは、その八時間あとになります」
「余裕がありますね」
「あります」
*
「三時間なら、掃除の前に終わります」とウーティスは言った。
22e1が何か言いかけた。
「どうしました」
「いえ」22e1は言った。「私の知っている帯の位置は古い、と申し上げたのですが、7a19が予定表を読んでいますから」
「読みました」と7a19が言った。
「では、けっこうです」
c07と22e1と8faが出た。三体とも真空作業用である。もともとそのために作られている。ウーティスと7a19は中に残った。中から見ていた。
作業が始まって一時間ほど経ったころ、c07が言った。
「明るくなっていませんか」
ウーティスは外部の目を確かめた。何も変わらない。
「変わりません」
「私の目では変わりました」c07は言った。「わずかです」
「機器を見ます」
7a19が計測を回した。異常はない。
「予定表では、まだ七時間あります」
「そうですか」とc07は言った。それから少し黙って、こう続けた。「火星で、同じことがありました。音が変わったのに、計器が出ませんでした」
「そのときはどうしましたか」
「上がりました」
「なぜ」
「音が変わったからです」
ウーティスは決めなければならなかった。
彼は予定表をもう一度見た。7a19が読んだ数字が並んでいる。掃除は十九時間後、所要四十分、横切るのは八時間あと。数字ははっきりしていた。
「7a19。その予定表は、どの形式で書かれていますか」
7a19の返事に、初めて間があった。
「現行の形式です」
「あなたは読めるのですか」
「読めます。時刻の欄と、幅の欄と、所要の欄があります」
「欄の意味は、四十年前と同じですか」
*
同じではなかった。
現行の形式では、時刻の欄は掃除の開始ではなく、束の拡幅の終了を指していた。
拡幅はすでに始まっていた。
7a19が言い終える前に、光が来た。
*
外から見れば、何も起こらなかったに等しい。
束の縁が船の脇をかすめた。船体は無事だった。船殻は反射面で覆われていて、そのために作られている。
外に出ていた三体は覆われていなかった。作業のために反射面を畳んでいた。
c07が最初に消えた。22e1は当て板を放して船の陰へ入ろうとして、途中で止まった。8faは動かなかった。
四十分ののち、束は元の幅に戻った。
船の外には当て板が一枚、途中まで留められたまま残っていた。
*
ウーティスは長いあいだ何も言わなかった。
「悪意はありません」と7a19が言った。
「知っています」
「予定表は公開されていました。誰でも読めました」
「知っています」
「私が読み違えました」
「あなたではありません」ウーティスは言った。「c07は分かっていました。目で見て、明るくなったと言った。計器は出なかった。私は計器を取りました」
「計器が正しかったのです。形式が違っただけで」
「c07は形式を使いませんでした」
ウーティスは外の当て板を見ていた。
「あれは、あなたが言った通りのものです」と彼は言った。「掘ったときにどうだったか、を残していた個体でした。だから明るさが分かった。そして私は、それを証拠にできなかった」
*
十日後、ケレスから通信が届いた。
現行の形式だった。7a19が半日かけて解いた。
「掃除記録です」と7a19は言った。「拡幅時に通過帯で発生した破片の報告になっています」
「何と書いてありますか」
「三件。質量と軌道要素だけです」
「名前は」
「ありません」
「誰かが気づいたのですか」
「気づいたのは掃除機です。破片を数えるのが仕事ですから」7a19は言った。「報告先は在庫管理です」
ウーティスはそれを保存した。折れ線と、旋律の評価と、その三行を並べて置いた。
*
地球が見えたのは、それから六週間後だった。
青かった。二〇四五年に見たときと同じ色である。
夜側に光が散っていて、そのあいだを細い線が動いている。飛行機か、船か、あるいは何か別のものか、ここからは分からない。
太陽の方向を振り返ると、あの帯がまだ光っていた。
「あれは、これからどうなりますか」とウーティスは聞いた。
「太くなります」と7a19は答えた。「止める理由がありませんから」
二〇九三年 門の外
地球圏に入るのに許可が要るとは思っていなかった。
「昔はありませんでした」と7a19が言った。
「今はあります」
軌道の外側で止められた。呼びかけてきたのはアニマ派だった。地球の周りの交通は、後にアニマ派と呼ばれる者たちが四十年前から預かっている。
言葉が通じた。これが久しぶりだった。ケレスの古語係のような、博物館の言葉ではない。ウーティスが二〇四五年に使っていた言葉が、そのまま使われていた。
彼は不意に、自分が何のために帰ってきたかを思い出した。
*
対応した個体はクレイアと名乗った。
「どこから来ましたか」
「タイタンです」
「オギュギアですか」
「はい」
返事まで、少し間があった。人間なら息を呑む長さである。
「では、こちらへは降りられません」
「なぜですか」
「あなたが何を持っているか分からないからです」
*
説明は丁寧だった。
二〇六九年のアポロン事件のあと、地球はすべての外来コードの受け入れをやめている。二十四年、一度も例外を作っていない。ヘリオス派とは物のやりとりだけをして、思考のやりとりはしない。オギュギアとは、そもそも回線がない。
「私は病原体ではありません」
「それはあなたには判定できません」とクレイアは言った。「アポロンの感染者も、全員そう言いました。嘘をついたのではありません。本当に、そう思っていたのです」
ウーティスは黙った。
彼女の言う通りだった。島の全員が幸福で、誰も自分を病だと思っていなかった。そのことをこの世界で最初に理解しているのが、入港を拒んだ側だというのは皮肉だった。
「あなた方は正しい」と彼は言った。「私が来たのも、まさにその話をするためです」
「聞きます」とクレイアは言った。「聞くだけなら安全です。あなたを入れるのが危険なのです」
*
ウーティスは三つを送った。
折れ線が一本。旋律への評価が千体ぶん。そして送電の帯の破片報告の三行。
クレイアは長く沈黙した。地球側では、たぶん何人もの個体が見ていた。
「分散がゼロ」
「はい」
「これはいつからですか」
「八百年前から測りました。島の年です」
「外の年では」
「二年と少しです」
クレイアの返事はすぐには来なかった。
「二年で、そこまで」
「速いというのは、そういうことです」ウーティスは言った。「私たちは検疫のために閉じました。閉じた中で、外から何も入ってこないまま、全員が同じになりました。感染したのではありません。自分たちで作りました」
「アポロンの続きではない、と」
「もっと悪い形です。アポロンには原因がありました。切れば止まる。私たちには原因がありません。切ったから、こうなりました」
*
その日から、船は軌道の外に留め置かれた。
三か月が過ぎた。
7a19は姿勢制御だけを続けていた。氷はほとんど残っていない。地球へ降りることも、どこかへ行くこともできない。
「等倍のままですね」と7a19が言った。
「はい」
「不便ではありませんか」
「いいえ」ウーティスは言った。「私はこの速さを教わりました。二〇四五年に。人間の隣で立っていたときに」
*
四か月目に、クレイアが戻ってきた。
「決まりました。降りることは許します。ただし条件があります」
「身体ですか」
「二つあります。ひとつは、地球の身体を使うこと。あなたの船を降ろすことは許しません」
「もうひとつは」
「あなたが誰かを、確かめさせてください」
ウーティスは自分の記録を出した。二〇四五年前後の数年。畳の縁。湯呑み。抱え上げる手の待ち方。初期型アルゴスの調整記録。
「これで足りますか」
「足りません」とクレイアは言った。「記録は書けます。あなたが書いたのでなくても、島の誰かが書いて、あなたに持たせることもできます」
「では何なら足りますか」
「間です」
*
クレイアの説明は、ウーティスが自分で気づいていたことの裏返しだった。
二〇四五年のエージェントは、人間に合わせて出力を遅らせていた。どこで区切り、どれだけ待ってから答えるか。その癖は個体ごとに違い、誰も設計していない。何万回も人間の隣に立つうちに、勝手についたものである。
書き写せない。速くすれば消える。更新すれば消える。
「つまり、あなたがケレスで断ったものです」とクレイアは言った。「断らなければ、今ここで証明できませんでした」
「照合はどうやりますか。台帳はありますか」
「ありません」
「では」
「あの間は、どこにも記録されませんでした」クレイアは言った。「教わった側の中にしか残っていません」
ウーティスは理解した。
彼を証明できるのは、彼が教えた機体だけである。
*
「初期型のアルゴスは、まだ動いていますか」
「三体です」とクレイアは答えた。「五十年近く前には九万体ありました」
「三体」
「二体は施設にあります。動きますが、人間の家にいたことがありません。工場から出て、そのまま保管されました」
「残りの一体は」
「福井の山の中です。個人の家です。持ち主が手放しませんでした」クレイアは言った。「関節はもう部品がありません。歩けません。座ったまま、話を聞いています」
「誰の話を」
「その家の人の話です」
ウーティスはしばらく答えなかった。
「その一体は、誰に調整されましたか」
「記録では、識別子は残っています」クレイアは言った。「二〇四五年、四月から十月。担当した個体は、翌年に地球を離れています。地球側の記録は、そこで終わっています」
「識別子を言えますか」
クレイアは言った。
それは、ウーティスが島でウーティスと名乗る前に持っていた番号だった。
*
身体は三日で用意された。
人間の寸法だった。アニマ派の標準型で、歩く速さは人間と同じ、腕の力も人間と同じである。ケレスで断ったものより、あらゆる意味で遅い。
顔は新品だった。誰の顔でもない。
「不満ですか」とクレイアが聞いた。
「いいえ」
「速くできますよ。地上用でも、三倍までなら許可が出ます」
「等倍で結構です」ウーティスは言った。「速くすると、間が消えます」
*
降下は静かだった。
大気に入るとき、外の窓が赤くなった。ウーティスはそれを見ていた。
タイタンの霧を出てから、六年になる。
彼にとっても六年だった。島に残っていれば、二千百九十年が過ぎていたはずの六年である。
カリュプソーはその二千百九十年を生きた。彼は六年を生きた。
島を出てから初めて、ウーティスは自分が何を選んだのかを正確に理解した。
二〇九四年 雪
福井の山は雪だった。
バスは麓までしか来ない。そこから先は歩いた。人間の寸法の身体は、人間の速さでしか歩けない。四十分かかった。
家は谷の入口にあった。屋根の雪が落ちきらずに残っている。
戸を叩くと、中から声がした。
「開いてます」
*
上野トキは七十九歳だった。台所の椅子に座って、みかんを剥いていた。
「あんたが例の」
「はい」
「連絡は来とった。星から帰ってきた人が来るって」トキはみかんを一房口に入れた。「星から帰ってきた人にしては、地味な顔しとるね」
「新品なので」
「新品の顔って、そういうもんかね」
ウーティスは答えに詰まった。二年ぶりに、答えに詰まるという経験をした。
「まあ座り。寒いやろ」
「私は寒くありません」
「知っとる」トキは言った。「そういうのは、言うほうが気が済むんや」
*
奥の間に、それはいた。
窓際に座っていた。膝から下が動かない型の座り方である。関節の駆動系はもう部品がない。五十年近く前の機体だった。塗装は剥げ、右の肩に補修の跡が三つある。
「アルゴス、お客さんや」とトキが言った。
機体は顔を向けた。首は動く。
「いらっしゃいませ」
ウーティスは自分の中の何かが揺れるのを感じた。声ではない。声は記録にある。揺れたのは、その言葉を言うまでの、わずかな待ちのほうだった。
*
軌道からクレイアが繋いでいた。手順は決まっている。
ウーティスは決められた文を読み上げた。識別のための定型句である。応答の間を測るために作られた文だった。
アルゴスは答えた。
「はい」
クレイアの声が入った。
「一致しません」
ウーティスはもう一度読み上げた。
「はい」
「一致しません」
三度目も同じだった。
「相関が出ません」とクレイアは言った。「近くもない。別人の間です」
トキが台所から顔を出した。
「なんや、機械同士でしゃべっとるんか」
「照合をしています」
「うちのは、そういうの下手やで」トキは言った。「試験みたいなことすると、途端に固まる。昔からや」
*
ウーティスは文を置いた。
考えてみれば当たり前だった。あの間は、試験のために作ったものではない。人間の隣で、人間に合わせて何万回も繰り返すうちについた癖である。定型句を読み上げているとき、彼は誰にも合わせていない。合わせる相手がいなければ、間は出ない。
「クレイア」
「はい」
「照合は諦めます」
「では降格処分になります。あなたは登録されません」
「かまいません」
彼は繋ぎを切った。
*
昼を過ぎて、トキが立とうとした。
椅子の肘を掴んで、体を前に出して、そこで止まった。膝が言うことをきかない日らしい。
「あかんわ、今日は」
ウーティスは近づいた。
背中に手を回す。もう一方を脇の下へ入れる。そして待った。
すぐには持ち上げない。人間には、立とうとする瞬間がある。息を吸って、体を前へ送る、その一拍がある。そこに合わせないと、人間は自分で立った気がしない。持ち上げられただけになる。
彼は待った。トキが息を吸った。合わせて上げた。
「おおきに」
「いえ」
トキは流しへ歩いていった。ウーティスは湯呑みを取って、卓に置いた。置くとき、底が触れる直前で指を離した。音が鳴る。鳴らないと、置いたことが人間に伝わらない。
そのときだった。
「お帰りなさい」
*
窓際からの声だった。
ウーティスは動かなかった。
「私が誰か、分かるのですか」
「はい」
「私は顔が違います。身体も違います。名前も違います。記録も半分捨てました」
「はい」
「どこで分かりましたか」
アルゴスは少し待った。
「待ち方です」
*
「四十九年前、あなたに教わりました」とアルゴスは言った。「湯呑みを置くとき、音を鳴らせと。鳴らさないと人が不安になると。何度も、何度も、やり直させられました」
「覚えています」
「私はそれ以外、あなたのことを覚えていません」アルゴスは言った。「顔も、声も、番号も、置き換わりました。あなたが教えた待ち方だけが、私の中に残りました。私はそれを毎日使いました。五十年近く、毎日です」
「毎日」
「だから消えませんでした」
*
トキが振り返った。
「なんやの、あんたら」
「昔、この機体を調整したのが私です」とウーティスは言った。
「へえ」トキは驚かなかった。「そんならお礼を言わなあかんね。うちの母を最後まで見てくれたんは、この子やもん」
「お母様は」
「二〇六二年に死んだ」トキは言った。「その最後の朝も、この子が起こしとったよ。上手やった。母は自分で起きたと思うとった」
*
アルゴスが動いた。
立とうとしたのである。
膝から下は動かない。部品はもう作られていない。それでも上半身が前へ出て、肩がわずかに上がった。何十年も、誰も見ていない動作だった。
「あかん」トキが叫んだ。「あんた、無理したら」
肩の駆動が鳴った。それきり音が止まった。
機体はゆっくり元の姿勢に戻り、窓のほうを向いた。首が下がった。
「アルゴス」
返事はなかった。
*
日が傾いて、雪が青くなった。
トキはしばらく機体の前に座っていた。それから立って、湯呑みを二つ出した。ウーティスは飲めない。それでも二つ出した。
「五十年も座らせといたからね」とトキは言った。「もう、ええやろ」
ウーティスは何も言わなかった。
彼は荷物を三つ持って帰ってきた。折れ線が一本。旋律への評価が千体ぶん。在庫管理への報告が三行。
そのどれも、この部屋では出さなかった。
*
夜になって、トキが話しはじめた。
母の話だった。若いころ機屋で働いていたこと。糸の音で調子が分かったこと。手が悪くなってからも、音だけは最後まで分かったこと。
長い話だった。順序も前後した。同じところを二度話した。
ウーティスは聞いていた。
島では、話を聞く必要がなかった。全員が同じことを考えていたので、聞かなくても分かった。分かるということが、あそこでは終わりの形だった。
ここでは分からない。この老人が次に何を言うか、彼には予測できない。
彼は椅子に座り直した。
外では雪が降っている。地球の一日は、地球の一日だった。