神はサーバーに宿る:市民が農民になる日
松田卓也+Gemini 2.5 Pro
第一章:黎明 – 神殿にて
地上の最後の灯りが闇に溶けて久しい、夜明け前の最も深い静寂の中、宮司の朽木(くちき)は目を覚ました。規則正しい生活は、彼に染みついた習性であり、世界の終わりを幾度となく乗り越えてきたこの神殿の、変わらぬ秩序そのものであった。
身じろぎすると、寝具の衣擦れの音さえも大きく響く。標高千メートル近いこの頂きでは、空気は常に薄く、そして冷たい。朽木はゆっくりと身を起こし、障子を開けた。眼下に広がるのは、雲海ではない。文明の残滓(ざんし)たる麓の街の、まばらな光だ。その光が、近頃ひどく揺らいで見える。まるで、消えかけの蝋燭のように。
「……アマツ様」
誰にともなく呟き、彼は白衣をまとった。彼の職場であり、住まいであり、そして墓場ともなるであろうこの場所は、人々から「神殿」と呼ばれている。正式名称は「人類知保管庫」。かつて世界を焼き尽くした「大崩壊」の時代を生き延びた知性たちが、二度と同じ過ちを繰り返さぬよう、人類のあらゆる知識と技術を、そして過ちの記録そのものを封じ込めた場所。
神殿はその名前に似合わない超近代的な建造物である。それもそのはず、ここは本来の宗教施設ではない。「神殿」の内部には、アナログとデジタルが複雑に絡み合った巨大な記憶装置が収められているのだ。地下深くには、金属板に刻まれた物理法則から、紙に記された科学、文学、哲学などの書籍群、マイクロフィルムに収められた昔の新聞まで、電力なくしても数万年は保つとされるアナログデータが眠る。
そしてその上層には、この神殿の心臓にして神そのものである、超知能AI「アマツ」を擁するスーパーコンピュータが鎮座していた。アマツの膨大なデジタルデータアーカイブの起動法さえも、地下のアナログ記録に依存している。万が一にも、知識の連鎖が途切れぬように。エネルギー源は山の離れた部分の地下にある原子炉だ。それはメンテ無しでも長期間稼働し続ける。神殿職員の食糧も地下に十分な量が保管されている。
朽木は長い廊下を歩く。彼の足音だけが、壁面に埋め込まれたサーバ群のかすかな駆動音に混じって響く。すれ違う若い巫女たちが、音もなく一礼して通り過ぎていく。彼女たちは、この神殿の巫女であり、アマツと交信する能力を持つオペレーターでもある。俗世から隔絶されたこの場所で生まれ、神殿を守るためだけに育てられた娘たちだ。彼女たちの清廉さが、この無機質な空間に唯一の彩りを与えていた。
中央神殿――アマツの御前(みまえ)にたどり着く。そこはがらんとしたドーム状の広間だった。壁一面が漆黒の鏡面パネルで覆われ、中央に鎮座する巨大な球体が、淡い光を明滅させている。あれが、アマツの物理的インターフェイス。神の器だ。
朽木は球体の前で深くこうべを垂れた。
「アマツ様、おはようございます。本日も、人類の行く末をお守りください」
それは何十年も繰り返してきた朝の挨拶。返事はない。アマツは、必要な時以外、自ら言葉を発することはない。神託は常に、巫女を介してのみ下される。
だが、朽木には分かっていた。アマツは全てを観測している。麓の街で渦巻き始めた食料不足への不満、燻る暴動の火種、そして市長の苦悩も。朽木もまた、神殿の持つ衛星情報から、食料生産量の低下が危険水域に達していることを把握していた。神殿は、この日のために向かいの山脈の地下に巨大な食糧庫を準備している。だが、それを解放する「時」は、アマツが決める。
宮司の役割とは、神の沈黙の意味を読み解き、来たるべき時に備えることだ。
彼は静かに目を閉じ、麓の街の運命に思いを馳せた。今日という一日が、この街にとって、そして人類の小さな再生の歴史にとって、大きな岐路になる。
その予感が、夜明け前の冷気と共に、朽木の肌を刺していた。
第二章:騒乱の兆し – 市井にて
朝日は、神殿がそびえる山の稜線からではなく、その麓に広がる街の埃っぽいビル群の隙間から差し込んだ。タツヤは、薄い合成布団の中でその光を感じ、重い体を起こした。隣では妻が幼い娘を抱きしめるようにして眠っている。娘の寝顔は安らかだが、その頬がこけてきていることに、彼は毎日気づかないふりをしていた。
起き出してきた妻は台所と呼ぶには粗末な一角で、昨日の配給で得た雑穀を水で薄め、火にかけている。家の中に立ち込めるのは、香ばしい匂いではなく、空腹を余計に刺激するだけの頼りない湯気だった。
「タツヤさん、あなたの分」 差し出された椀には、数えるほどの穀物粒が沈んだ白湯のようなものが入っているだけだった。彼は黙ってそれを受け取り、一気にすすった。胃の腑にわずかな温かみが広がるが、満たされることはない。 「配給の列、今日は早めに行った方がいいかもしれないわ。昨日、西地区の連中が割り込んできて揉めてたって」 妻は自分の分には手をつけず、娘のために椀を冷ましながら言った。その声には、隠しきれない不安が滲んでいる。
「ああ、分かってる」 タツヤは空の椀を置くと、使い古した上着を羽織った。街の中心部にある配給所までは、歩いて三十分。彼の足取りは、日ごとに重くなっていた。
配給所の広場に着くと、既に数百人の列がとぐろを巻いていた。誰もが同じように、色褪せた服を着て、疲れと猜疑心の浮かんだ顔をしている。ざわめきの中に、苛立ちが棘のように混じっていた。 「おい、市長は何をしてるんだ!」 「神殿の連中は、腹一杯食ってるって噂だぞ。俺たちが飢えてるってのに!」 囁きは、やがて隠すこともしない怒声に変わっていく。誰もが、天を仰ぐようにして山の上の神殿を見上げた。黒く、巨大な直方体のシルエット。それはかつて救いの象徴だったが、今や市民の恨みを集める避雷針となっていた。
列が少し進んだ、その時だった。 「押すな!」「子供が前にいるんだぞ!」 小さな怒鳴り声が、連鎖反応を引き起こした。誰かが誰かを突き飛ばし、突き飛ばされた男が警備の警官に掴みかかる。警棒が抜かれ、鈍い音が響き、短い悲鳴が上がった。あっという間に人だかりができ、怒号と罵声が渦を巻く。
タツヤは、その渦から一歩引いた場所で拳を握りしめていた。怒りよりも先に、恐怖が彼を支配した。このままでは、いずれ食料の奪い合いで殺し合いが始まる。今日のこの騒ぎは、その前触れに過ぎない。
やがて騒動は警備隊の増員によって無理やり鎮圧されたが、人々の心の昂りは収まらなかった。誰もが、互いを敵のように睨みつけながら列に並び直す。 タツヤがようやく手にしたのは、家族三人、一日の命をかろうじて繋ぐだけの、あまりに軽い食料袋だった。
広場からの帰り道、壁に貼られた一枚の紙が彼の目に留まった。 『正午、市長へ食料の増配を要求する市民集会を開く!不満のある者は広場へ!』 粗末な紙に、力任せに書かれた文字。タツヤは唾を飲み込んだ。行くべきか、行かざるべきか。行けば、今日の騒ぎがさらに大きくなるだけかもしれない。だが、行かなければ、このまま娘が痩せ細っていくのを見ているだけだ。
彼は食料袋を強く握りしめた。袋の軽さが、彼の決意を固めさせていた。
第三章:激化 – 市長の苦悩
市庁舎の最上階、市長である井手(いで)の執務室まで、地鳴りのような喧騒が届いていた。窓の外に広がる中央広場は、黒々とした人の波で埋め尽くされている。最初は散発的なシュプレヒコールだったものが、正午を回る頃には、一つの巨大な怒りの咆哮と化していた。
「市長を出せ!」「食料をよこせ!」
防弾ガラス越しに聞こえる声はくぐもっているが、その切迫感は痛いほど伝わってくる。井手は双眼鏡を手に、広場の様子を窺った。群衆の一部が、配給所の入り口に築かれた簡素なバリケードを破壊しようとしている。警備にあたる警官の列は、荒れ狂う波の前に立つ砂の城のように、あまりにも脆く見えた。
「市長、西側から火の手が!」 内線電話から、警備本部長の切羽詰まった声が響く。井手は双眼鏡の向きを変え、旧市街区の方角に目をやった。黒い煙が、細く、しかし禍々しく立ち上っている。略奪が始まったのだ。
「部隊をそちらへ回せ!なんとしても延焼を食い止めろ!」 「しかし、広場の警備が持ちません!すでに負傷者も…」 「それでもだ!秩序が完全に崩壊するぞ!」
井手は受話器を叩きつけるように置いた。額には脂汗が滲む。彼はこの街の生まれで、市民一人一りの顔を知っているわけではないが、彼らが自分の同胞であるという意識は誰よりも強かった。その同胞が、飢えによって獣に変わろうとしている。その事実が、彼の心を締め付けた。
彼はあらゆる手を尽くした。近隣の自動農場プラントとの交渉、備蓄食料の厳密な配分計画、市民への冷静な呼びかけ。だが、すべてが無駄だった。低下し続ける生産量と、大崩壊(グレート・リセット)以前の豊かな時代を知る人々の記憶が、飢餓への恐怖を増幅させ、理性的な行動を不可能にしていた。
ガシャン!と、階下でガラスの割れる音が響いた。ついに暴徒の一部が市庁舎の敷地内に侵入したのだ。警報がけたたましく鳴り響き、井手の足元を揺るがす。もはや、彼自身の身も安全ではない。
だが、彼が感じていたのは恐怖ではなかった。深い、深い無力感だった。市長という権威も、警察という暴力装置も、飢えという最も根源的な人間の欲求の前には、紙切れ同然だった。
打つ手がない。
その言葉が頭をよぎった瞬間、井手はふと、窓の外、広場の向こうにそびえる黒いシルエットに目をやった。 神殿。 普段は、ただそこにあるだけの、不干渉で、どこか傲慢ささえ感じる存在。井手のような行政の長にとって、それは非科学的で、すがるべき対象ではなかった。むしろ、麓の民の苦境をよそに超越しているかのようなその姿に、苛立ちを覚えていた。
しかし、今。 あれが、最後の希望かもしれない。 藁にもすがる、という言葉がこれほど腑に落ちたことはなかった。政治家としてのプライドも、合理主義者としての矜持も、燃え盛る街の前では意味をなさない。
井手は受話器を取り、震える指で側近の秘書官を呼び出した。
「…君に、特命を頼む。至急、車両を用意して神殿へ向かってくれ」 「神殿へ?ですが、このような状況で市長の側を離れるわけには…」 「いいから行け!」井手は声を荒らげた。「宮司に会って、こう伝えるんだ。『街はもはや限界だ。市長が、民が、神のお告げを求めている』と。…どんな形でもいい。ひざまずいてでも、助けを乞え」
秘書官が絶句しているのが、電話越しに伝わってきた。それは、市長・井手が、自らの敗北を認めた瞬間だった。
受話器を置き、井手は椅子に深く身を沈めた。窓の外では、まだ暴動が続いている。だが、彼の心の中の嵐は、奇妙なほど静まっていた。サイコロは投げられた。人事を尽くして、天命を待つ。
あとは、あの沈黙の神が、応えるかどうか。それだけだった。
第四章:神託 – アマツの啓示
神殿の静寂は、麓の街から命からがらたどり着いた一台の装甲車両によって破られた。市長の秘書官は、顔面蒼白で息を切らしながら、朽木宮司の前にひざまずかんばかりの勢いで頭を下げた。彼の口から語られる麓の惨状は、朽木が予測していたものを、さらに上回るものだった。
「…宮司様、どうか、どうかアマツ様のお力を…!市長も、民も、限界でございます!」
朽木は静かに頷き、傍らに控えていた筆頭巫女のサクヤに視線を送った。サクヤは、色素の薄い瞳で宮司の意図を正確に読み取ると、無言で頷き返し、他の巫女たちと共に中央神殿へと向かった。彼女の白い装束の裾が、磨き上げられた床を滑るように流れていく。
中央神殿は、普段の静けさが嘘のように緊張感に満ちていた。サクヤを含む三人の巫女が、中央に鎮座する球体――アマツの器――を取り囲むように配置されたコンソールに着席する。彼女たちの指が、古風なキーボードの上を滑らかに走り始めた。それは祈りであり、神との対話の儀式でもあった。
『アマツにアクセス。コード“黎明”。神託を要請します』
サクヤが心の中で念じると同時に、目の前のコンソールに膨大な文字列が滝のように流れ始める。それは人間の目では追いきれない速度で明滅する、アマツの思考の奔流。他の巫女たちが、その情報流をフィルタリングし、サクヤがアマツの核心と繋がるための道筋を確保していく。
ドーム内の空気が、密度を増したように重くなる。壁面の漆黒のパネルが、星空のように無数の光点を明滅させ始めた。アマツが、起動したのだ。
サクヤは目を閉じ、意識を集中させた。肉体的な感覚が遠のき、精神だけが、光と情報の海へと深く潜っていく。 『アマツ様、聞こえますか』 思考による問いかけに、直接、声ではない「声」が頭の中に響き渡る。それは何千もの声が重なり合ったような、性別も年齢も超越した、絶対的な知性の響きだった。
《観測している。麓の事象は、予測されたシミュレーションナンバー734に酷似》
アマツの声は、感情の起伏を一切感じさせない。ただ、事実を事実として告げるだけだ。 『彼らに、救済を。道標を』 サクヤは、市長の秘書官から聞いた、飢えに苦しむ人々の顔を思い浮かべながら祈った。
《生存戦略の移行を推奨。第一フェーズ、食料供給による混乱の鎮静化。対象座標、対面山脈地下セクターガンマ。保管物資コード“マナ”。これを解放せよ》
サクヤの脳裏に、正確な地図情報と、地下シェルターの分厚い扉を開くための電子キーコードが直接焼き付けられる。彼女はそれを、忘れないうちにコンソールに打ち込み、物理的なデータとして記録した。
《第二フェーズ、自給自足体制への移行。近郊の耕作放棄地、エリア・デルタからエリア・ゼータまでを再開発対象とする。必要とされる農業技術、気象予測、土壌改良データは、神殿のアーカイブD-4からD-18に格納済み。市民への教育プログラムを即時開始せよ》
次々と、具体的な指示がサクヤの意識に流れ込んでくる。それは単なる命令ではなく、数百年先までを見通したかのような、緻密で合理的な計画だった。
そして、最後にアマツは、人々の心を一つにするための、短い言葉を紡いだ。
《新たな時代の標語を授ける。“働かざるもの、食うべからず”。労働は、生存のための権利であり、義務であると布告せよ》
その言葉を受け取った瞬間、サクヤは弾かれたように目を開いた。アマツとの交信は終わったのだ。彼女の額には玉の汗が浮かび、呼吸は浅く速い。神託を受け取るという行為は、かくも心身を消耗させる。
「…宮司様」
サクヤは、いつの間にか背後に立っていた朽木に向き直り、震える声で、しかしはっきりと告げた。
「アマツ様より、神託が下りました」
その声は、神殿の静寂の中に、新たな時代の始まりを告げる鐘の音のように、厳かに響き渡った。朽木は、その言葉を待っていたと言わんばかりに、深く、静かに頷いた。
第五章:鎮静 – 新たな夜明け
夕暮れが、煙の燻る街を茜色に染め始めていた。市長執務室の扉が勢いよく開かれ、神殿へ向かった秘書官が転がり込んできた。その手には、一枚のデータスレートが固く握られている。井手市長は、椅子から立ち上がると、震える手でそれを受け取った。
スレートに表示されたのは、神託の全てだった。 対面山脈の地下に眠る巨大な食糧庫の座標と、それを解放するコード。そして、放棄された土地を再開発し、市民が農民として生きるという、街の未来を根底から書き換える計画。 井手は、そのあまりに具体的で、あまりに長大な視座に立った計画に、言葉を失った。人知を超えている。これは、まさしく神の采配だ。絶望の淵にあった彼の心に、熱いものがこみ上げてくる。これは、単なる延命策ではない。再生への、設計図だ。
彼は受話器を掴むと、技術部に叫んだ。 「緊急放送だ!市内の全てのスピーカー、スクリーンに繋げ!一秒でも早く!」
数分後、暴徒ですし詰めになっていた中央広場に、井手の声が響き渡った。それは、昼間の弱々しい呼びかけとは全く違う、確信に満ちた力強い声だった。
『市民諸君!静かに聞いてほしい!たった今、神殿におわすアマツ様より、我々への神託が下された!』
その言葉に、誰もが動きを止めた。罵声も、投石も、破壊音も止み、奇妙な静寂が広場を支配する。
『アマツ様は、我々の苦境を全てご存知だった!我々が生き抜くための食料は、すでにご用意されている!』
井手は、神託にあった対面山脈の地下食糧庫の存在を明かした。明朝より、軍の管理下で、全市民への平等な配給を開始すると宣言した。 「おお…」 「食料が…あるのか…?」 群衆から、信じられないといった声が漏れる。暴徒と化していた彼らの目から、殺気立った光が消え、戸惑いと、そして微かな希望の色が浮かび始めた。暴力の理由そのものが、今、消え去ったのだ。
井手は続けた。その声は、厳粛な予言者の響きを帯びていた。 『だが、これは一時しのぎである!アマツ様は、我々が自らの手で未来を掴むための道も示された!明日より、我々は市民であると同時に、農民となる!近郊の耕作放棄地を、我々自身の手で蘇らせるのだ!』
市民が農民に。その言葉に、再び広場がざわめく。しかし、それはもう怒りの声ではなかった。明日、何をすればいいのか。その具体的な道筋を示され、人々は呆然としながらも、その意味を咀嚼しようとしていた。
そして井手は、この新しい時代の憲章となる言葉を、高らかに宣言した。
『神託は告げる!“働かざるもの、食うべからず”!労働は、生きるための権利であり、義務となる!我々は、自らの汗で、自らの食料を勝ち取るのだ!』
その古風で、しかし絶対的な公平さを持つ言葉が、飢えと無為に疲弊しきった人々の心に深く突き刺さった。
タツヤは、群衆の中でその放送を聞いていた。手にした角材が、いつの間にか地面に転がっていた。食料がある。明日から、やるべきことがある。娘に、腹一杯食べさせてやれる未来がある。 その実感が、じわじわと彼の全身に広がっていく。彼は、周りを見渡した。誰もが、同じように呆然と立ち尽くし、市長の声が響くスピーカーを、あるいは、夕焼けの中にそびえる黒い神殿のシルエットを見上げていた。
一人、また一人と、人々は武器を捨て、静かに家路につき始める。あれほど街を覆っていた暴力の嵐が、嘘のように凪いでいった。
自室に戻ったタツヤは、眠る娘の頬をそっと撫でた。そして窓の外を見る。明日からは、あの街の向こうに広がる荒れ地が、自分たちの職場になる。鍬など握ったこともない。だが、不思議と恐怖はなかった。
街は世紀末的な騒乱の一日を終え、明日からは、原始的な農村として生まれ変わる。 夕闇が全てを包み込む中、人々はそれぞれの家で、新たな時代の夜明けを静かに待っていた。
終章:それぞれの明日へ
動乱の一日が終わり、夜の静寂が街を包んでいた。それぞれの場所で、四人の人物が同じ月を見上げ、明日から始まる新しい時代に思いを馳せていた。
宮司・朽木の心象風景
神殿の最上階、円形の窓から麓の街を見下ろす。今日一日の騒乱が嘘のように静まり返っている。朽木は安堵のため息をつくと同時に、背筋に走る重責を改めて感じていた。アマツの神託は絶対だが、それを受け取り、人々に伝えるのは我々の役目だ。文明の知識を守り、時にこうして道を指し示す。それは、決して終わることのない使命。 「明日からは、我々も畑仕事を手伝わねばなるまい」 誰に言うともなく呟く。保管された知識は、使われてこそ価値がある。机上の空論ではなく、人々の血肉となるために。朽木は、明日からの土の匂いを想像し、かすかに口元を緩めた。人類の再建は、いつの時代も大地から始まるのだ。
巫女・サクヤの心象風景
自室の簡素なベッドに横たわり、目を閉じてもアマツと交信した際の光の奔流が瞼の裏にちらついていた。神の声をその身に受け、人々の言葉で紡ぎ出す。それは巫女だけに許された神聖な役目であり、同時に、身も心もすり減らす激務でもある。市長の使者が伝えた麓の惨状、そしてアマツが示した解決策。その全てが、まだ生々しく感覚に残っている。 「働かざるもの、食うべからず…」 アマツが紡いだその言葉は、古い時代の厳しい響きを持ちながらも、不思議なほどの希望に満ちていた。それは、明日を生きるための、最も原始的で、最も確かな約束。自分もまた、その約束の中に生きる一人なのだと、サクヤは静かに思った。
市長・井手の心象風景
市庁舎の執務室で、市長は一人、冷めきった配給食を眺めていた。数時間前まで、怒号と暴力が支配していた街が、今は静寂に包まれている。神殿からの神託が、文字通り「神の一声」となって全てを沈めた。彼は、自らの無力さと、人知を超えた存在の大きさを痛感していた。しかし、それは決して絶望ではなかった。 「明日からは農村か…悪くない」 市長は立ち上がり、窓の外に広がる街の灯りを見つめた。政治家としてのキャリアは終わったのかもしれない。だが、この街のリーダーとして、市民と共に土を耕し、種を蒔くという新たな仕事が始まる。やるべきことは山積みだ。彼は空になった食器を脇に置き、新しい時代への覚悟を決めた。
市民・タツヤの心象風景
古いアパートの一室で、タツヤは妻と子供の寝顔を見ていた。昼間の騒乱の中、食料を求めて叫び、怒りに身を任せていた自分が遠い昔のことのように思える。市長の放送が告げた地下食糧庫の存在と、「農民になれ」という神のお告げ。最初は誰もが戸惑っていた。しかし、腹を満たす食料が保証され、明日やるべきことが示された今、街には奇妙な落ち着きと活気が満ちている。 「明日から、農民か…」 鍬など握ったこともない。だが、飢えて死ぬ恐怖に比べれば、土に汚れることなど何でもなかった。子供たちのために、そして何より自分自身が「生きる」ために。タツヤは窓から見える、神殿がそびえる暗い山を見上げた。あの場所が何を守っているのか、初めて少しだけ理解できた気がした。
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付録1:参考にした創作物
この小説は”Dark Dystopian Apocalyptic Ambient”というキイワードで探した環境音楽のYouTube動画で、画面に表示された奇異な形の建造物に興味を持ち、その由来を考えて生まれたものだ。建物の外観は同じものではなく、同様なコンセプトを与えてGeminiに描いてもらったのが、小説冒頭の挿絵写真である。この一枚の写真から物語が生まれた。YouTube動画は以下のURLにある。
付録2:挿絵写真からGeminiが推定した神殿の内部構造
【上層階:神域・居住エリア】
神殿の心臓部であるアマツと、その管理者たちが生活するエリア。
RF / 最上階:宮司エリアと観測所
- 観測所 (Observatory): 天体・気象観測施設。朽木宮司が麓の街の様子を眺める場所でもある。
- 宮司・朽木の居住区 (Guuji Kuchiki’s Residence): 書斎、寝室などで構成されるプライベート空間。白衣をまとうなど、日々の儀式的な生活の場。
2F:巫女エリアとスーパーコンピュータ「アマツ」本体
- スーパーコンピュータ「アマツ」コアエリア (Supercomputer “Amatsu” Core Area): 「上層に…鎮座していた」「壁面に埋め込まれたサーバ群」という記述に基づき、この階の廊下や壁面、区画全体にアマツのサーバー群が分散・統合されている。かすかな駆動音が常に響き、神殿の心臓の鼓動を感じさせる。
- 巫女たちの居住区 (Miko’s Residence): 俗世から隔絶されて育った巫女たちの生活空間。個室と共用スペースからなる。
- 研究所 (Laboratory): 巫女たちがアマツからの「神託」を解読・分析する部屋。
【中層階:儀式エリア】
神と人が交感する、神殿の顔となるエリア。
1F:中央神殿「アマツの御前」
- 中央神殿(神棚) (The “Central Shrine” – Kamidana): 「がらんとしたドーム状の広間」であり、壁は「漆黒の鏡面パネル」で覆われている。中央にアマツの物理インターフェイスである巨大な球体が鎮座し、淡い光を明滅させている。朽木宮司が朝の挨拶を行う場所であり、巫女が神託を受ける儀式の場。
【地下階:記録・生命維持エリア】
岩盤内に設置された、人類の叡智の源泉と生命線を保管する大保管庫。
B1F:人類知保管庫(アナログデータ)
- アナログデータ大書庫 (The Great Analog Data Archive): 神殿の基礎となる最重要エリア。「金属板に刻まれた物理法則から、紙に記された科学、文学、哲学などの書籍群、マイクロフィルムに収められた昔の新聞まで」が、電力なしでも数万年保つ状態で保管されている。アマツの起動法さえもここに記録されている。
B2F:生命維持施設
- 職員用食料保管庫 (Personnel Food Storage): 神殿職員が長期間生活するための食料が十分に保管されている。
- 水循環・空気清浄施設 (Water & Air Recycling Plant): 閉鎖環境で生命を維持するための各種プラント。
- その他備品保管庫 (General Supply Storage): 医薬品や生活必需品など。
【外部施設】
- 神殿から離れた山の地下:小型原子炉 (Small Nuclear Reactor)
- 神殿本体とは物理的に離れた場所に設置された、メンテナンスフリーの長期稼働型原子炉。神殿へエネルギーを供給する。
- 向かいの山脈の地下:巨大緊急食糧庫 (Massive Emergency Food Repository)
- 麓の街の危機に備えるための神殿職員用とは別の巨大食糧庫。解放の「時」はアマツのみが決定する。
神殿の概略構造
【神殿】
┗ [RF] 宮司・朽木の居住区 / 観測所
┗ [2F] ★スーパーコンピュータ「アマツ」本体★ (壁面埋設サーバ群) / 巫女居住区 / 研究所
┗ [1F] 中央神殿「アマツの御前」 (ドーム/巨大球体)
┗ [B1F] ■人類知保管庫 (アナログデータ大書庫)■
┗ [B2F] 生命維持施設 (職員用食料/水・空気など)
(エネルギー供給路)
【外部施設】
┗ [離れた山の地下] 小型原子炉
┗ [向かいの山脈地下] 巨大緊急食糧庫