AI小説「クレムリンのひび割れ」第一部

クレムリンのひび割れ

松田卓也+Gemini 2.5 Pro

挿絵:GPT-4o

第一部:壁の亀裂

第一章:灰色の空の下で

モスクワ郊外、十月。空は鉛色の雲に覆われ、薄ら寒い雨がアスファルトを濡らしていた。アパートの四階にあるアンナ・イワノワの部屋の窓にも、絶えず雨筋が描かれては消えていく。古いサッシの隙間からは、湿った風が忍び込んできた。
アンナはキッチンで、今日の夕食の準備をしていた。テーブルの上には、市場で買ってきたばかりのジャガイモとキャベツ、そしてなけなしのバターが置かれている。値段を見て、また溜め息が出た。ジャガイモは去年の倍近い値段だ 。キャベツも、バターも、何もかもが狂ったように値上がりしている 。教師の給料は据え置かれたままなのに、生活費だけが天井知らずに上がっていく。まるで、ゆっくりと首を絞められているような感覚だった。
「今日はボルシチにしましょうか…」
独り言ちながら、アンナはジャガイモの皮を剥き始めた。無心に手を動かしていると、少しだけ気が紛れる。だが、それも束の間だった。キッチンの壁に掛けられた安っぽい時計が四時を指すと、胸騒ぎが襲ってきた。息子のミーシャからの連絡が、もう三日も途絶えている。
ミーシャは二十歳になったばかりで、「特別軍事作戦」に動員され、ウクライナのどこかの前線に送られていた。どこなのか、詳しいことは知らされていない。ただ、テレビでは連日、輝かしい戦果と兵士たちの勇姿が報じられている。しかし、アンナがこっそりテレグラムで見る情報や、近所の噂話は、まったく違う現実を示唆していた。おびただしい数の死傷者 、装備の不足、そして絶望的な戦況。どちらが本当なのか? アンナは、知りたくなかった。ただ、息子が無事でいてくれれば、それでよかった。
皮を剥き終えたジャガイモを鍋に入れ、水を注ぐ。コンロに火をつけようとしたが、何度かスイッチを回しても、火花が散るだけで点火しない。またガス圧が低いのだろうか。最近、こういうことが増えた。電気も時々、予告なく止まる。生活の基盤そのものが、静かに、しかし確実に軋み始めているのを感じる 。
窓の外では、雨が一層強くなっていた。灰色の空の下、同じように不安を抱えて生きる人々が、この国のどこかに無数にいるのだろう。誰もが口には出さないけれど、薄氷の上を歩いているような危うさを感じているはずだ。いつ、この氷が割れるのだろうか。アンナは沸騰しない鍋を見つめながら、ただ息子の無事を祈り続けた。壁の時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえていた。

第二章:ルビャンカの影

重厚な扉が音もなく開き、アレクセイ・ペトロフは上司であるコロリョフ大佐の執務室へと足を踏み入れた。クレムリンからほど近いルビャンカ広場に聳え立つFSB(連邦保安庁)本部は、その威容とは裏腹に、内部には澱んだ空気が漂っているようにアレクセイには感じられた。蛍光灯の白い光が、磨かれた床と無機質な壁を冷ややかに照らし出している。
「ペトロフ中佐、よく来た」
マホガニーの巨大なデスクの後ろで、コロリョフ大佐が顔を上げた。禿げ上がった頭頂部と、鋭い灰色の目が印象的な男だ。手元の書類から視線を外し、アレクセイに椅子を勧める。
「例の件、ポクロフスク方面からの報告書だが」
大佐は机の上に置かれた薄いファイルを示した。アレクセイはそのファイルに見覚えがあった。昨日、分析部門から回ってきたものだ。ウクライナ東部、激戦が続くポクロフスク地区からの最新の戦況報告。そこには、国営テレビが報じる「輝かしい前進」とは似ても似つかない数字が並んでいた。驚異的な損失率、深刻な弾薬不足、そして兵士たちの士気の低下。
「この報告書は、少々…扇情的すぎる」コロリョフ大佐は静かに言った。「数字の解釈に誤りがあるようだ。前線の混乱が、分析官の判断を曇らせたのだろう」
アレクセイは黙って大佐の言葉を聞いていた。誤り? 扇情的? それは違う、と直感的に思った。報告書を作成したのは、データ分析では庁内でも指折りの冷静沈着な人物だ。これは、隠しようのない現実ではないのか?
「上層部は、より正確で、客観的な状況判断を求めておられる」大佐は続けた。「この報告書は、一度差し戻し、表現を修正する必要がある。特に損失に関する記述は、不必要に悲観的だ。士気に関わる部分は削除するように」
つまり、「修正」とは「改竄」のことだ。不都合な真実を塗りつぶし、上層部が望む「客観的な」報告書を作り上げろ、ということだ。アレクセイはFSBに入って十年以上になる。これまでも、汚い仕事や、グレーな任務は数多くこなしてきた。それがこの組織で生き残る術だった。だが、今回の命令は、彼の心の奥底にある何かを揺さぶった。
これは単なる情報操作ではない。前線で死んでいく兵士たちへの裏切りではないか? 国民への、そして自分自身への嘘ではないか?
「…承知いたしました、大佐」
声がわずかに掠れた。アレクセイは、自分の内側に生じた小さな、しかし無視できない亀裂を感じながら、ファイルを手に取った。執務室を出て、長い廊下を歩きながら、彼は自問した。俺はいつから、真実から目を背けるようになったのだろうか?
ルビャンカの分厚い壁は、外の世界の喧騒だけでなく、中にいる人間たちの良心の声さえも遮断してしまうかのようだった。アレクセイは、自分のデスクに戻ると、重い溜め息と共にかぶりを振った。仕事だ、これは。そう自分に言い聞かせようとしたが、報告書の重みが、いつもよりずっと堪えるように感じられた。

第三章:デジタルの抵抗

モスクワ中心部から少し離れた、古いアパートの一室。エレナ・ソロキナは、ラップトップの画面に食い入るように見入っていた。部屋には、読みかけの本や資料の束が雑然と積み重ねられている。壁には、政府のプロパガンダとは対照的な、抗議デモの写真が数枚、ピンで留められていた。彼女は独立系のジャーナリストとして、この国の「公式発表」の裏側に隠された真実を追い求めていた。
主な武器は、暗号化されたメッセージングアプリ、テレグラムだ。彼女が運営するチャンネル「モスクワ・インサイト」は、匿名の情報提供者や市民ジャーナリストからの情報を集約し、検証し、発信するプラットフォームとなっていた。購読者は日に日に増え、今や数十万人に達している。それは、国営メディアへの不信感の裏返しでもあった。
「また新しい通達…’情報テロリズム’に対する罰則強化?」
エレナは眉をひそめた。画面には、政府が新たに導入しようとしている法律の草案が表示されている。明らかに、自分たちのような独立した情報発信者を狙い撃ちにするものだ。VPNへの接続も不安定になり、当局の監視の目は確実に狭まっているのを感じる。
それでも、彼女はキーボードを叩く手を止めなかった。今、彼女がまとめていたのは、一般市民の生活を直撃しているインフレの実態に関するレポートだ。公式発表では8.9% とされているが、彼女が各地の協力者から集めたレシートや市場価格のデータは、実質的なインフレ率が20%を超えている ことを示していた。特に食料品の値上がりは深刻で、年金生活者や低所得者層の悲鳴が聞こえてくるようだった。
『政府発表8.9%は嘘。あなたの街のジャガイモはいくら? キャベツは? バターは? 実質インフレ率22%超えの実態。#生活危機 #公式発表の嘘』
短いコメントと共に、グラフや市民の声をまとめた記事をチャンネルに投稿する。すぐに、コメント欄には共感や怒り、そして新たな情報提供が次々と書き込まれていった。このデジタルの広場だけが、まだかろうじて息をしている真実の吐露の場だった。
だが、安心はできない。数日前、協力者の一人が理由もなく拘束されたという情報が入った。自分の身にも、いつ危険が及ぶか分からない。ラップトップのカメラ部分には、念のために不透明なシールが貼ってある。時折、背後から誰かに見られているような感覚に襲われることもあった。
エレナはコーヒーを一口飲み、窓の外に目をやった。曇天の下、人々は足早に行き交っている。彼らの多くは、まだ政府の言葉を信じているのだろうか。それとも、信じたいだけなのか。あるいは、もう諦めてしまったのか。
「諦めるわけにはいかない」
彼女は再び画面に向き直った。恐怖はある。だが、それ以上に、この国が嘘と沈黙によって窒息してしまうことへの怒りが、彼女を突き動かしていた。ペンではなくキーボードで、彼女は壁に刻まれた嘘に、ささやかな抵抗を続けていた。デジタルの戦場で、たった一人で。

第四章:金と逃亡

ドバイの七つ星ホテルのスイートルーム。窓の外には、非現実的なほど青いペルシャ湾と、空に向かって伸びる摩天楼群が広がっている。しかし、セルゲイ・アブラモフの心は、この豪華な景色とは裏腹に晴れなかった。彼は新興財閥(オリガルヒ)の一人として、かつてはクレムリンとの良好な関係を築き、莫大な富を築き上げてきた。だが、「特別軍事作戦」の開始と共に状況は一変した。
西側の制裁は、彼の海外資産の多くを凍結し、ビジネスに大打撃を与えた。さらに悪いことに、戦争の長期化はロシア経済そのものを蝕み、国内での事業すら先行きが見えなくなってきている。ヴォルコフ大統領とその取り巻きたちは、依然として強気な姿勢を崩さないが、アブラモフのような現実を知るビジネスマンにとっては、破滅への道を進んでいるようにしか見えなかった。
「手続きは完了しましたか、ボリス?」
アブラモフは、衛星電話で最も信頼する部下と話していた。声には、普段の自信はなかった。
『はい、会長。シンガポールの口座への送金、及びドバイでの不動産購入契約、すべて完了しております。ご家族の移動準備も、指示通り進めております』
「結構。くれぐれも、痕跡は残さないように」
通話を終え、アブラモフは深く息をついた。まるで泥棒のように、自国から資産を運び出す。情けない話だ。だが、沈みゆく船から逃げ出すネズミになるしかない。彼は、生き残るためには手段を選ばない男だった。
数時間後、彼は同じホテル内のプライベートダイニングルームで、他のオリガルヒ数人と密かに顔を合わせていた。表向きは、旧交を温めるための会食だ。だが、グラスに注がれた高級ワインの味も、テーブルに並んだ豪華な料理の味も、誰も楽しんではいないようだった。
「セルゲイ、君も大変だろう。ヨーロッパのヨットが差し押さえられたとか?」 一人が探るように尋ねた。
「噂は当てにならんよ」アブラモフは平静を装って答えた。「それより、モスクワの状況はどうだね? こちらにいると、どうも情報が偏っていて」
会話は当たり障りのない世間話と、互いの腹を探り合うような言葉で終始した。誰もが不安を抱え、現状への不満を口にしたがったが、同時に、誰が「同志」で、誰が「密告者」かを見極めようとしていた。ヴォルコフ体制への不満は、彼らの間で静かに、しかし確実に広がっている。だが、それを具体的な行動に移すには、まだ恐怖と疑念が強すぎた。
「近いうちにまた、モスクワで集まろうじゃないか」 解散間際、アブラモフはそう提案した。他の者たちは、曖昧に頷くだけだった。
部屋に戻ったアブラモフは、窓の外の夜景を見つめた。煌びやかな光の下には、巨額の金と、それに群がる者たちの欲望が渦巻いている。だが、その輝きも、いつまで続くのか。遠い故郷で今も続く無意味な戦争と、その指導者の狂気が、自分たちの築き上げてきたものすべてを飲み込もうとしている。
「…潮時かもしれんな」
彼は誰に言うともなく呟いた。逃亡か、それとも…。彼の頭の中で、まだ漠然とした、しかし危険な考えが芽生え始めていた。それは、この国を、そして自分自身を救うための、最後の賭けになるかもしれない。

第五章:極東の風

ハバロフスク。アムール川の雄大な流れを見下ろす知事公館の執務室で、ヴィクトル・カザンツェフはこの広大な極東地方の統治者としてデスクに向かっていた。窓の外には、大陸的なスケールで広がるタイガと、どこまでも続くかのような大河がある。モスクワからは七つの時間帯を隔てた、帝国の東の果て。ここには、モスクワとは違う時間が流れ、違う風が吹いている。
カザンツェフは、鋭い目つきと、日に焼けた頑健な体躯を持つ、五十代半ばの男だった。元軍人であり、地元の有力者との繋がりも深い。彼は、クレムリンから派遣された多くの知事とは異なり、この土地の現実を知り尽くしていた。そして、モスクワの官僚たちが、地図の上でしかこの極東を理解していないことも。
「知事、モスクワからまた催促が来ております。天然資源の国家備蓄への供出割り当てについてです。今月分が大幅に遅延していると…」
首席補佐官が、苦い顔で報告した。カザンツェフは、モニターに映し出されたモスクワからの公式文書を一瞥し、鼻を鳴らした。
「またか。彼らは、前線の穴埋めに必要な資源を、全て我々から吸い上げようとしている。まるで植民地だな」
ウクライナでの戦争が始まってから、中央からの要求はエスカレートする一方だった。木材、鉱物、そしてエネルギー。この地方の富が、遠い西の戦場へと消えていく。その見返りは、ほとんどない。
「補佐官、モスクワにはこう返信しておけ。『予期せぬインフラ設備の老朽化による技術的問題が発生。現在、鋭意復旧作業中であり、完了次第、可及的速やかに対応する予定』…と」
「しかし知事、先月も同じような理由を…」
「ならば、今月は別の箇所の『技術的問題』だ。この広大な土地で、古い設備の一つや二つ、常に問題を抱えているのは当然だろう?」カザンツェフは、冷ややかに言い放った。「それに、優先すべきは、まず我々の地域のエネルギー確保と住民生活だ。冬が来る前に、備蓄を確保せねばならん」
補佐官は、それ以上何も言わずに頷いた。知事の真意を理解しているからだ。これは、単なる遅延工作ではない。モスクワへの、静かだが明確な抵抗の意思表示であり、この地域の自律性を守ろうとするカザンツェフの深謀遠慮の表れだった。
彼は窓の外に目をやった。アムール川の対岸には、巨大な隣国、中国が見える。モスクワは遠い。だが、北京は近い。地政学的な現実は、クレムリンの威光よりも、時には重い。
カザンツェフは、この極東が持つ潜在能力を信じていた。豊富な資源、広大な土地、そして勤勉な人々。モスクワの軛(くびき)から解き放たれれば、この地域は独自の力で発展できるはずだ。今はまだ、その時ではない。だが、中央の権威が揺らぎ始めている今、彼は着実に布石を打っていた。連邦の指示を無視し、地方の権限を強化し、独自の資源管理を進める。それは、壁に刻まれた亀裂を、さらに広げる行為に他ならなかった。
いつか吹くだろう、本当の「極東の風」を待ちながら、カザンツェフは静かに、しかし確実に、自らの帝国を築き始めていた。

第六章:見えざる消耗

深夜のFSB本部。アレクセイ・ペトロフは、自席のコンピューターの前で、画面に表示された文書から目を離せずにいた。それは、厳重なアクセス制限がかけられた内部サーバーの奥深くに保管されていた、国防省と参謀本部が作成した最新の「内部評価報告書」だった。彼が、特別な権限を持つ同僚の助けを借りて、危険を冒して入手したものだ。
画面に並ぶ数字と分析は、衝撃的という言葉では生易しかった。彼が数日前に「修正」を命じられたポクロフスク方面の報告書など、比較にならないほど詳細で、そして絶望的な内容だった。
『…同地区における過去1ヶ月間の人員損失は推定1万5千名に達し、回復不能なレベル。特に動員兵の損耗率が著しく高く、訓練不足と装備の旧式化が顕著…』
『…戦車及び装甲車両の損失は、5個師団相当分を超過。補充は損失ペースに全く追いつかず、前線部隊の3割以上が定数を大幅に下回る状態で戦闘を継続…』
『…弾薬備蓄は複数の種類で危機的水準。特に精密誘導兵器の不足は深刻であり、作戦遂行能力に重大な支障…』
そして、さらに衝撃的な記述があった。
『…兵員不足を補うため、北朝鮮及びその他友好国からの「義勇兵」を多数投入。しかし、彼らの多くは十分な訓練を受けておらず、装備も旧式。言語や文化の違いによる指揮系統の混乱も報告されており、戦力としての実効性には疑問符が付く…』
アレクセイは、息を詰めて読み進めた。これが、国営テレビが決して報じない戦争の真実。輝かしい勝利の裏側で、ロシア軍という巨大な機構が、内側から静かに、しかし確実に腐り落ちていく様が、そこには克明に記録されていた。あの日、コロリョフ大佐に命じられて自分が修正した報告書は、この巨大な嘘を糊塗するための、ほんの小さな一片に過ぎなかったのだ。
画面の青白い光が、アレクセイの顔を照らし出す。彼の表情は、驚愕から、次第に深い絶望へと変わっていった。自分はこの組織の一員として、この巨大な欺瞞に加担してきた。前線で若者たちが犬死にしていくのを、間接的に手助けしてきたのだ。
彼は、コンピューターの電源を落とした。部屋は静寂に包まれたが、彼の頭の中では、報告書の数字と、息子を戦場に送った母親たちの顔が、ぐるぐると回り続けていた。
もう、見て見ぬふりはできない。この体制は、この戦争は、根本から間違っている。
アレクセイは、硬い決意を固め始めていた。それは、彼自身の安全をも脅かす、危険な決意だった。だが、これ以上、魂を売り渡すわけにはいかなかった。彼は、ルビャンカの深い闇の中で、一条の光を探し始めようとしていた。たとえそれが、どれほど細く、頼りない光であったとしても。